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桑原 茂一 DEC 03,2020

Look Book Cook Records No.69


ふり返るな!
ふり返ると、お前の後ろから暴走するダンプカーに、
はねられるぞ!

これはご存知・メソッド演技で名を馳せた、
マーロン・ブランドさんの教えだが、
私も振り返らない人生をモットーにしている。
と啖呵を切りたいところだが、
URBAN RESEARCH MEDIA COLUMN
この連載お読みいただく皆様との距離を縮めたい
あるいはあなたと私の間に流れる深くて黒い川
隅田川あるいは荒川はたまた仙川、
もちろん、セーヌ川でもテームズ川でも黄河でも
揚子江でも化けの皮でも構わない。が、
浅瀬でチャプチャプするオイラの思考の源泉を
お届けしたい。過去を語ります。その一。

私は、コム デ ギャルソン
によって、選曲家という
仕事に出会えた。

<インタビュー>
桑原茂一
聞き手:西谷真理子

─ 70年代末から80年代にかけて、私は、東京とパリでコム デ ギャルソンのショーを見てきたのですが、コム デ ギャルソンがアヴァンギャルドというイメージを持たれる上で、音楽の力もとても大きかったと思っているんです。他のブランドとは、かなり音楽の選び方が違うような気がしまして、これは是非、コム デ ギャルソンの音楽を初期から担当なさった桑原さんにお話を聞きたいと思ったのです。 桑原さんが、コム デ ギャルソンのショーの音楽を初めて担当なさったのはいつのことですか?

桑原茂一(以下桑原): デビッド・ボウイの『ロウ』のリリース直後の、
1977年だったかなぁ。工事中の青山のフロムファーストの地下でやったときですね。ファッションショーの音楽選曲は、菊池武夫さんと稲葉賀惠さんのBIGIが、最初なんです。確か、1969年頃、じゃなかったかと思います。

─ 川久保さんのことは、いつごろからご存知でしたか?

桑原: 川久保さんの服を、一番最初に見たのは、表参道の伊藤病院の斜め前にあったショップでですね。

─ 1972年にできた「ヘルプ」ですね。

桑原: ファッション長屋みたいのがあったんです。ちっちゃいお店が10軒くらいあって、その一番奥が、コム デ ギャルソンだったんです。制服みたいな洋服売ってるなぁというのが第一印象。いいとこのお嬢様が着るような服ばかりあって、不思議でしたね。黒とか濃紺とか、水玉もあったかなぁ……。当時僕はロングヘアで、パンタロンで、キンキラキンな感じの時代でしたから、「ん?」という感じでした。そのイメージしかないから、コム デ ギャルソンのショーの音楽って言われて、最初は何のことだろうって。あんまりよく分かっていませんでしたね。

─ 最初にお話があったとき、ショーの洋服などは、あらかじめ見せてもらえたんですか?

桑原: それは、その後も一度もなかったですね。そういえば、最初のころ、当時大山町[渋谷区]に住んでいたんですけど、川久保さんが音楽を聴きに来ていた時代がありますね。

─ それは、ショーをすることが決まってから?

桑原: そうです。こういうのどうですか、って目の前で何度か聴いてもらいました。

─ 川久保さん自身は、音楽の知識はお持ちだったんですか?

桑原: もしかしたらご存知だったのかもしれないけれど、少なくとも、私の前では音楽に対しては、まったく興味がないというふうに見えました。なので、このアーティストのこの曲がいいね、なんて話は、一度もしたことがないですね。一回だけ、パリコレをやってずいぶん経ってから、80代とか90代とかのおばあちゃんたちが、今は使われていない古いフランス語で唱うコーラス曲を使ったことがあって、「このCD、私も欲しい」って言われたことがあります。後にも先にも、そのときだけですね。通算で20年近くやりましたので、最初はレディースだけで、年に2回、メンズが始まると、年4回。97年までですから、50回以上は選曲しているはずですよね。
すごい数ですね。

─ 70年代末から80年代のファッションショーって、ディスコミュージックのような、いかにもノリの良い曲にして、とにかくモデルをリズムに乗せるのが通例でしたが、そこに、なにか全然違うムードの音楽が出現した印象があります。

桑原: まあ、川久保さんはそういうキャットウォークを、テンポの良い曲で歩くみたいなことに対しては、アンチだったでしょうね。そういうことはやりたくないっておっしゃっていましたよ。

─ こういうふうにしてほしいというのはなくても、いやだというのはあった?

桑原: ありましたね。

─ いやなこととしては、たとえば他にどんなことがあったか、覚えてらっしゃいますか?

桑原: 基本的に、同じ方法論はいやだったんじゃないですかね。

─ どこも使っているような音楽は使わないでほしいとか。

桑原: ポピュラーな曲というのは、まったくノーでしたね。何回選んでもオッケーが出ないことは、よくありました。ショーの選曲のために2ヵ月間くらい費やすことなんてざらでしたから、年に2回やっても、それで4ヵ月くらい時間とられるし。メンズが始まったら、それにまた1ヵ月ずつ。だから、年に半年以上は、川久保さんのショーのための選曲をしている(笑)。これは仕事というよりは、私にとっては修行みたいなもんでしたね。

─ 川久保さんが、それは違う、っていうのはどういう基準なんですか?

桑原: 分からないです。何の説明もない。

─ イエスかノーかを言うだけ?

桑原: そうですね。何が駄目なのか、どこが駄目なのか、どうしたいのか。ともかく、何か言ってくれないともう選べないって言うと、「なんて言っていいかわからないのよね」って、それで終わっちゃう。

─ そんなご苦労があったとは。

桑原: もう、抜け出せない蟻地獄でした(笑)。パリコレが始まってからですが、東京で、延々と決まらなくて、さすがに困ったなあと思いながら、悶々としながらも、とりあえず、時間もないからこのまま行きましょうと、プレスの武田さんに言われて。どうなんだろう、いいんだろうかこれで、と思いながら、できるだけたくさん、予備を持って行ったんです。で、朝6時くらいにパリに着いて、そのままオフィスに行って、モデルたちとのフィッティングが始って、そこで初めてコレクションの全貌が分かるんですね。それが終わってから、具体的なショーの構成のミーティングになるんです。で、そこで「全部やめて、違うのにしない?」っていうことがあって。僕はパリには住んだこともないので、東京のようにレコードがどこに売ってるかも分からない。途方に暮れていたら、パリの友人がシャンゼリゼのヴァージンが深夜0時まで開いてることを教えてくれて、それで救われましたね。そこからスタジオとレコードショップの往復でした。そうそうレアールのfnacのレコード売り場にも朝一番で行って何度も通いましたね。

─ 準備してきた音源が、全部NGだったんですね。

桑原: 白紙からですからね、で、パリでは選ぶときに東京のレコードショップと違って試聴もできない、とにかく可能性のあるものを必死に集めてはスタジオに戻って選曲、でも決まらなくて、またヴァージンやfnacに行って探す。それをぎりぎりまでずーっとやるわけです。本番までには1日半ほどしかない─断崖絶壁っていうのは、こういうことを言うんだと思いましたね(笑い)。逃げて帰るわけにはいきませんからね。音楽をどうして欲しいのかが分からないっていうのが蟻地獄なんです。もちろん自分が納得できなければ聞かせるわけにもいきませんから。結局自分との戦いなんですが。

─ しかも、洋服も最後まで見られない。

桑原: いや、それはいいんですよ。洋服にぴったり合わせるなんてことは、望んでいないというか、そんな音楽の使い方は、絶対いやだろうし。僕としても、自分なりに、ある種の世界観というか、エモーショナルな何かを作らなくちゃいけないっていうのがあるから、それが作り出せるまでは、やっぱり悶々と。そうすると、プレスから電話がかかってくるんです。「川久保が待ってます」って(笑)。

─ 基本的には、やっぱり、新しい音から探すことが多かったのでしょうか。

桑原: そうですね。まだ誰も聴いていない新しい音楽を常に探してはいたのですが、ファッションショーのための選曲となると、そういうわけにはいかないのが分かり、しまいに、世の中にあるレコードは全部聴いたんじゃないかって言いたくなるくらい、「聴いたことがない」音楽がなくなって、ジャズを使ったとすれば、もう二度と使えない。同じ方法論はとれないので、じゃあどういう音楽が、今世の中にあるんだっていうふうに、どんどん泥沼にはまっていくんですよ。

─ 最初はやっぱり、ロックとか、ロンドン系のパンクだったり、ニューヨークだったりのお得意のジャンルからだったのですか。

桑原: 最初は、自分が好きで聴いているものの中から、自分なりに、ショーの音楽を考えていましたね。さっきも言いましたが、川久保さんの前に、菊池武夫さんと稲葉賀惠さんのBIGIのショーは何度かやっていましたし。

─ そちらはどんな感じだったんですか?

桑原: いや、もっとストレートです。というのも、お二人とも、音楽が好きなので、はっきりこういう音楽って言いますから。タケ先生は特に音楽に詳しいので。
ジャズも大好きだし、自分の音楽観があるので、
ピタッとくるかこないかが分かるんです。

─ 川久保さんの場合は、そういう手掛かりが……?

桑原: もう、禅問答ですよ、禅問答。仕事をするときには、自分は、川久保玲さんの仕事をするための用意ができているだろうかっていつも自問していましたね。滝行にでも行って、穢れを取ってこないとだめなんじゃないかって思うくらい。

─ すごいですね。でも、桑原さんをノミネートしたっていうことは、やっぱり当時一番新しい音楽に触れている人だからだったんでしょうね。川久保さんは、デザインにしても、アートディレクションにしても、建築の施工なんかにしても、プロフェッショナルとして、川久保さんが信頼する人じゃないと、声をかけないというのは分かりますから。ただ単に有名な人や権威には頼らない。にもかかわらず、そんなに苦しめちゃうわけですね。

桑原: ファッションの為に音楽を選ぶっていうことに関してはまったく甘く考えていましたね。それが、川久保さんの仕事をするようになって、自分の中には本当にクリエイティブな力はあるんだろうかと問われていたような気がしましたね。
要するに、情報として音楽を知っているかではなくて、音楽とどう取り組めるのかっていう。
最初は、当時影響を受けていたニューウェーブを始めとする時代の潮流音楽みたいなものにものすごく影響を受けて、自分自身を表現することにこだわっていたんです。川久保さんの仕事なんだけど、ショーのために音楽を選ぶことが、自分を表現することだと思っていた。そのことが、恥ずかしいというのは、あとで気がついたことなんです。 時代を俺はこう捉えてるんだ、みたいなものを川久保さんにぶつけるのでなくて、自分ができる役割は何なんだろうと問うこと。自分の持っている何かが、川久保さんの作品を膨らませることができるのかどうか、そんな境地になっていきましたね。 川久保さんのクリエイティブのための補佐を俺はするんだ、っていう方向に向かうとなると、自分はこういう音楽は聴かない、なんて好き嫌いは通らない。あらゆる音楽を聴かざるを得なくなるんです。それも客観的な耳で。ここは、すごく大事なことだなって思いますね。聴いたことのない音楽を探しまわり、聴く量も半端じゃなく増えていく中で、音楽が持っている本質的なものに、どんどんどんどん入っていかざるを得ないんです。

─ 私が最初に、コム デ ギャルソンの音楽が他と全然違うって思ったのは、たぶんパリと並行して東京でもやっていた84~86年くらいでしょうか。そのときは桑原さんがまだ自分らしさを出そうとしていたときですか?

桑原: いやぁ、あとでしょうね。77年から始めて、81年辺りから、パリコレが始まって、初めて、ファッションがすごいクリエイティブな分野だってことを実感してから、変わりましたよ。パリコレに行ってからは、音楽への向かい方がガラッと変わりました。

─ 毎回、予想できない音楽が楽しみでした。ロックのこともあれば、クラシックを引用することもあり。

桑原: ジャンル分はもう関係ないんですよね。

─ あの頃のギャルソンのショーには、洋服と音楽が一つの塊になって、どこかに連れて行かれるって感覚がありましたね。陰にそういうご苦労があったとしても、報われたと思いますよ。

桑原: 川久保さんのおかげで、たぶん、音楽と自分がどう向き合うかを考える本当にいい機会を与えられました。僕がいま、選曲家っていう肩書きを名乗れるのは、川久保さんの仕事をしてきたからだと思っています。もし、自分のためだけに音楽を選ぶなら、選曲家とは名乗れないでしょうね。それによって、映画を観ることや絵画を観ること、小説を読むこととか、飲んだり食べたりすることまで、全部ひっくるめて、大きく変わったと思いますね。自分にとっての80年代、90年代っていうのは、川久保さんのクリエイティブの現場を体験させてもらったっていうのが、何よりも幸運だったと思いますね。

2012年12月17日初版発行
「相対性コム デ ギャルソン論」
編者 西谷真理子

以上は、8年ほど過去に受けたインタビューです。

今読み返すと愚痴を再確認するようで恥ずかしいのですが、

一番知りたいのは創作のプロセスではないでしょうか?

選曲は基本私一人のプロセスですが、それでも、

何かに導かれるように選曲してしまうことがあります。

さて、誰もが知りたい川久保玲さんの創作プロセスを

少し垣間見ることができる手がかりがありました。

8年前の2012年に受けるインタビューより、

5年ほど遡る2007年11月30日に発行された書籍です。

先に読んでいれば、

インタビューへの対応も変わったかもしれませんね。

秘密を引用しましょう。

デザインはどこから生まれるのか?
コム・デ・ギャルソンの場合はたとえば次のように進行する。
まず素材づくりである。
川久保は長年仕事をしているテキスタイルデザイナーに
素材についての意向を伝える。
それは会話をしながら曖昧な表現や
隠喩の形で示されることが多いという。
たとえば「冷たい感じのする布」
「鉄のような布」といったものである。
テキスタイルデザイナーはそこから
川久保が求めているものを独自に解釈して、
テキスタイルの手配・制作に入る。
完成したテキスタイルはときとして
一般的な服には適さない素材であることもあるようだ。
素材づくりと並行して、
川久保はパタンナーたちにデザインのテーマを説明する。
それもまた抽象的なことばで伝えられ、
具体的なファッション画などは示されない。
それは抽象的なドローイングであったり、
くしゃくしゃに丸めた紙であったり、なにかキーワードのようなもの
(たとえば「裏返した枕カバーのような」とか
「精神的な意味でのエスニック」)であったりする。
この漠然としたテーマを解釈しながら
パタンナーたちは試行錯誤しながら
トワルを組んでいく。
ここではパタンナーは形をつくる
デザイナーでもあることが求められている。
彼らが考えてきたものが検討され、修正ややり直しを経て、
次第に服の形が生まれてくる。
形が決まると開発された素材がパタンナーたちに初めて渡される。
それまで素材について知らされていないため、
場合によっては素材と形が合わないこともあったりするので、
デザインの調整や変更がぎりぎりまでおこなわれ、
最終的な完成形へと仕上げられる。
こうしたプロセスをとるのは、
川久保がデザインを
スタッフとの共同作業のなかからつくりだそうとするからである。
川久保には最初から自分の求めているものが
見えているわけではなく、
素材や形を模索するなかで徐々に発見していく。
スタッフは川久保のことばや表情を手がかりに
彼女が無意識に求めているものを読み解き、
それを現実の形にせねばならない。
目的地がわからないまま走っていくプロセスは
スタッフの精神状態をぎりぎりに追いつめることも珍しくない。
しかしスタッフの想像力を限界まで
酷使するこの作業によってはじめて、
だれも見たことのない新しいデザインがつかみだされるのだ。
ファッションを脱構築するコム・デ・ギャルソン

「20世紀ファッションの文化史」 一部引用
著者 成実弘至(2007年11月30日初版発行 河出書房新社)

Rei Kawakubo is the enigmatic head of innovative Japanese fashion house Comme des Garçons.
Forever defying conventional thinking, Kawakubo’s vision extends
beyond clothing to furniture, architecture and graphic design. i-D examines Rei’s complex and conceptual world, looking back through the magazine’s archives to discover how Kawakubo continues to push boundaries and marry fashion with art in the most unexpected of ways.

世界に通用するクラブ・カルチャーを東京からも発信したい。

三つ数えろ!

動機と行動。

「1」 1977年〜1997年 コム デ ギャルソン・ コレクション選曲。

「2」 1982年〜1985年日本最初のクラブ
  「ピテカントロプス・エレクトス」誕生。
  1982年 MELON「Do You Like Japan」故中西俊夫の活動場所

「3」 1988年「CLUB KING . CO」発足
  「freepaper dictionary」創刊

選曲家とは生き方のこと。

「2」 日本最初のクラブ「ピテカントロプス・エレクトス」

少し紹介しておこうと思う。

そもそも日本という国を考えていくとき、
桑原茂一は、この社会の共同体的な狭さに、とても
大きな違和を抱えていた人だった。
そうした日本の共同体的な、っていうか、
「村」社会に向かって、
桑原茂一は疑問をいくつも抱え、
それを形にしようという理想や理念が、
「ピテカントロプス・エレクトス」というクラブとして形象した。
彼の抱いた疑問、疑念は、家の制度や社会の仕組みというような
隅々にいたるんだけど、
もちろん桑原茂一という人は学者ではないし、
批評家でもなかったし、研究者でもないわけですから、
桑原茂一がもともと持っていた音楽的な教養、
それからファッション界との関わりという手段や
方法を通じて実現させようとしていった。
そしてそれは、時代のなかで、きわめて突出した姿をしていた。

2005年12月20日

スネークマンショーは〈笑い〉ではなかった
で、彼が抱いてた疑問とかそういうものの意味は、
僕なんかでもすごくよくわかったんだけど、

途中略

でも、〈近代〉のやり直しという意味において、
ピテカントロプス・エレクトスという
日本ではじめてできたクラブは、ひとつの現象として、
大きな意味や価値があったと僕はいまでも思っています。
こんなことをやろうとした人間が他にいたか、
しかもそれをこんな大胆なやり方でやろうとした
人間がいたのかというと、絶対にいない。
そこでうまく立ち回った人たちはいたのかもしれないけど、
「〈近代〉のやり直し」をこれほどラジカルに突き詰めていった
人間は、桑原茂一のほかにはけっしていなかった。
それが明治の鹿鳴館の運命とどことなく重ね合わせられる。

ピテカントロプス・エレクトスが閉店したのは1984年です。

「東京大学「80年代地下文化論」講義」
著者 宮沢章夫(白夜書房)

「80年代地下文化論」著 宮沢章夫(劇作家)
15年前に発刊された書籍から一部引用した。

ふりかえるな!

掟破りのシックスナイン

上下左右自在な 69

確かに過去は、ただの燃えがらだ。

だが燃えがらは

消えて亡くなったのではない

未来が逃げたわけでもない

未来は雨や風や空気に紛れて

池上に降り注ぎ

そして誰かの中で再び始まる

ゼロは永遠の自由であり

無限の自由である。

私は京都で狼煙を上げる。

2021年 freedom dictionary 京都から発刊します。

選曲家 桑原茂→

MOICHI KUWAHARA, DJ AND PUBLISHER,
and his son TATSUKI MORI, MUSICIAN, 27,
photographed at Harajuku station.
Moichi Kuwahara is a DJ and a producer,
the publisher of free paper Dictionary Magazine and the
owner of Clubking. He describes himself as
a “thinker”. The anonymity of the garments
is what he likes about Comme des Garçons.
“Nobody notices that it is Comme,” he says,
“even if I wear the clothes that are branded.”
Currently working on the Taiwanese version of
Dictionary Magazine, Moichi also spends a lot
of his time on Pirate Radio. He likes dancing
and he would take us to Japan Folk Crafts
Museum if we were in Tokyo. His 27-year-old
son Tatsuki Mori plays bass in the Japanese
band Day and Buffalo. Tatsuki loves Comme
des Garçons, because they hold a sentimental
value for him; “It’s also a brand that my father
and I wore when I was a child.” Tatsuki likes
to dance at Le Baron in Paris, and would take
us to the Shimokitazawa neighbourhood if
we were in Japan – “Because if you go there,
you’ll understand Tokyo,” he says.

© 2012 TASCHEN GmbH

Hohenzollernring 53, D-50672 Köln, Germany
www.taschen.com
Editor-in-Chief and Art Director: Terry Jones

PROFILE

初代選曲家、毎週金曜日夜11時 Mixcloud PirateRadio(海賊船)、
Editor-in-chief launching1988年 free paper dictionary → 2020年 freedom dictionary on going

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