Look Book Cook Records No.22 偶然と必然の交じり合う偶有性の海を泳ぐ

桑原 茂→の由布院旅情 その2
Marc Chagall に BOWIE を選曲する


遠くに由布岳を頂き
目の前に金鱗湖 を見渡す由布院の名所
「 Cafe La Ruche 」
湖底から清水と温泉が湧いていると言われ年間を通じて水温が高いため
冬の早朝には湖面から湯気が立ち上る幻想的な光景を見ることができるとか

こちらのカフェの紅葉の美しさは格別だ
更に驚いたことにはその二階に
「 マーク・シャガール 」
専門のギャラリーに正面衝突
“ うっわ〜 なんだこれは ”
衝撃の遭遇に脳内雄叫びが木霊する
まさに偶有性の海 目の前は湖
となれば、泳ぐ他あるまい。
「 Marc Chagall に BOWIE を選曲する 」
まず予めお断りしておきますが、
ここから始まる 絵画作品への
あてぶり選曲はシャガール作品の趣旨とは
なんの関係もありません。
仮に作品に明確な趣旨などなかったとしても
つまり
「幻想的」
という言葉が 個々に等しく
真っさらに 自由であるように
作品から受けた
素直な私の直感選曲です。
言い訳するなら
過剰にぶっ飛んだシャガールに遭遇して
“ デビッド・ボウイが聴きたい ”
初代選曲家の衝動的
お惚け選曲でござりまする
ベスト楽しみ方は
mixcloud moichi kuwahara Pirate Radio
この番組 通称 海賊船 に乗船の上
このコラムをご覧いただくと
作者はきっと随喜の涙を流します

Marc Chagall 「 演奏する道化師 」
この作品のタイトルは
演奏する道化師ということですが
これは楽器ではなく
スルスルとのびきったパイプで
私にはアヘンを吸引しているように見えます
アヘンはケシ(芥子)から採れる麻薬の一種です。
紀元前1500年、エジプトのパピルスにもアヘンの精製方法が記されているなど、
まさに文明と共にその生命を育んできたのです。
アヘン窟はアヘンの販売と喫煙がなされた施設である。
アヘン窟は19世紀では世界各地で見られたが、
特に中国付近、東南アジア、北アメリカ、
フランスでよく見られた。

画像:1903年7月5日のLe Petit紙に掲載されたイラスト:”A New Vice: フランスのアヘン窟”
シャガールがアヘンを吸引していたか
否かには言及しない
自らも変性意識状態を生み出す人間の野生に
道徳の是非を問うことの愚かさは
天に唾することではないか
私が観たいのは絵画に描かれた
作家の奥に潜む誠である
本人すら望まぬ真意が表現に溢れ出る時
私たちはその作品に出会ったことに
感動するのである。

Marc Chagall / 「 黄色の道化師 」
さて選曲です
アイデアは思い出すことに似たり
これは才人の呟き
選曲:DAVID BOWIE
/ Peter and the Wolf

1936年にセルゲイ・プロコフィエフによって書かれた
子供のための交響的なおとぎ話です。
この作品の白眉は、楽器で物語の出演者たちを表現したことであり、
そのナレーションをあのDAVID BOWIEが担当していることにあります。
バード(鳥):フルート
ダッグ:オーボエ
キャット(猫):クラリネット
祖父:バソン
ウルフ(狼):フレンチホーン
ハンター:木管楽器と
トランペットのテーマ
銃声 : ティンパニーとバスドラム
ピーター:弦楽器
私の記憶から蘇ったこの作品の魅力は
英国訛りの品の良いボウイの声質であり
荘厳な深い森の風景が浮かぶことにあります
それは湯けむりが立ち込める由布院盆地に差し込む光の幽玄さに予期せぬデジャヴを感じたことにも由来します
では、由布院 温泉に浸かるように
静かに 呼吸を深く 心をほぐし
夢見るようにお聞きください。

Marc Chagall / 空中ブランコ乗り
誰もが自分だけの時間を歩んでいる
確かにこの作品は タイトル通り 空中ブランコだが
大きな時計の中に閉じ込められた気分にもなる
選曲:DAVID BOWIE / TIME
時間は止まっていた
次いで、しばしば、自分の全過去が突然蘇ってきて
落下している者は最後に壮麗な音楽を聞く
あれは特殊な状態に置かれた脳の働きなんですよ
( 養老孟司先生 )
何故 人は 死の間際に走馬灯を見るのか?
サーカスの醍醐味のひとつが
空中ブランコ乗り
ハラハラドキドキ
しかし 安全シートで
スリルを楽しむ 私たちの人生も
ある意味 逃れられない
空中ブランコ乗り
そう思って見れば 見るほど恐ろしい
が そこには
千言万語を費やしても表現し得ない
忘我がある

Marc Chagall / 「 黄色の道化師 」
能面のように感情を殺した道化師の顔に
私たちは一瞬怖気付くが
無表情はいっ時の死ではないか
ジョルジュ・バタイユが「érotisme」を
生殖を伴う性行為と対置的に定め
「小さな死」と表現した とか

選曲:DAVID BOWIE / CRACKED ACTOR
邦題は 「気のふれた俳優」
Crack Smack Suck
韻を踏んだスラングをぶちまける。
“ Crack baby crack show me you’r real
歌詞引用元:DAVID BOWIE / CRACKED ACTOR
Smack baby smack is all that you feel
Suck baby suck give me your head
Be for you start professing
that you’re knocking me dead ”
金で買った女とのセックス描写を
ボウイはリアルに歌う
BOWIEの新しさは サウンドだけではない
時代を描く視点がオルタナティブなのだ
まさに new wave
これは新しい文学の登場でもある
是非 Pirate Radio と併せてお聞きの上
BOWIEの主題曲が流れるプライベート映画「気のふれた俳優」をお楽しみください
因みに、Crackとはコカインをさらに精製した純度の高いものを言います。
歌詞の背後にリアルな今を忍ばせるBOWIE特有のダブルミーニングかもしれません。

Marc Chagall / 「 軽業師たち 」
いつの時代も天才アーティストの周りには
その時代の匂いをふりまく「マドンナ」が登場します
男たちは ものにしようと どよめくが
結果は まさか と うなだれる
無垢なものへの信仰は
得てして哀れな結果に終わるのだ
シャガールの遊んだ
あの頃の Parisに
暮らしてみたい
選曲:DAVID BOWIE /
「 THE JEAN GENIE 」
“ Jean Genie lives on his back
歌詞引用元:DAVID BOWIE / THE JEAN GENIE
Jean Genie loves chimney stacks
He’s outrageous, he screams and he bawls
Jean Genie let yourself go! ”
1973年当時の片岡義男さんの翻訳が堪らない
少しだけ引用させていただく
ザ・ジーン・ジニー あお向けで暮らす
ザ・ジーン・ジニー 煙突を愛す
彼はまったく法外 悲鳴をあげやりまくる
ザ・ジーン・ジニー 自分を全開に

Marc Chagall / 「 花束を持つ娘 」
選曲:DAVID BOWIE /
「THE PRETTIEST STAR」
シャガールと戯れ
アラジンセインに沈むなら
この映画は欠かせない
デカダンスの匂いとは これだ
『暗殺の森』(原題:Il conformista)
ベルナルド・ベルトリッチ 脚本・監督
1970年製作 イタリア・フランス・西ドイツ
原作はイタリアの作家 アルベルト。モラヴィア
小説 「孤独な青年」
(原題: Il conformista, 「同調者」の意)
選曲:DAVID BOWIE /
「 LADY GRINNING SOUL 」

Marc Chagall / 「 リング 」

Marc Chagall / 「 扉絵 」

Marc Chagall / 「 黄色のリング 」
選曲:DAVID BOWIE /
「 Aladdin Sane 」(1913-1938-197?)
「 誰が気の触れた者を愛すだろうか? 」
この曲の歌詞に このような一節がある
真にアーティストたる者は
ある意味 気が触れているのではないか?
普通の人々はそれをみて安心するのだ
アラジン・セインは、狂気の若者を意味する(A Lad In sane)をもじって名付けられた
アメリカのマーケットで売るために ボウイは やや荒々しく粗野なイメージを打ち出したとか
タイトル曲の副題(1913-1938-197?)は第一次、第二次世界大戦勃発のそれぞれ前年を指しており
最後はベトナム戦争から世界は破滅を辿るとの暗示だったという
暗示でよかった

Marc Chagall / 「 無題 」
選曲:DAVID BOWIE / STAY
“ Stay – that’s what I meant to say or do something
歌詞引用元:DAVID BOWIE / STAY
But what I never say is stay this time
I really meant to so bad this time
For you can never really tell, when somebody
Wants so much to stay ”
歌詞をどう理解するか?
絵画作品をどう理解するか?
この歌詞も、恋人へ、愛人へ、妻へ、
もしかしたらビジネスパートナーへとか?
想像力ほど人間を
自由にするものはないのかも
欲しいものは全部手に入るのだから
想像している間はね

Marc Chagall / 「 無題 」
何故、シャガールは裸の花嫁を
何度も描くのだろうか?
女性たちの花嫁願望が
即ち幸福願望だとする社会通念に対する反抗か?
どこを探しても幸福そうに見える絵がない
結婚は墓場だと揶揄する為の・・
本当にシャガールは愛の画家なのか?
反抗か?反抗か?反抗か?
選曲: DAVID BOWIE / 「Golden years」
Golden years, gold, whop, whop, whop
引退後 定年後 ゴールデンイヤーズ
シャガールが86歳で亡くなる年に
ボウイは リタイア後の老後の世界を
黄金時代と揶揄している
この曲のエピソード:1975年発表のシングル「Golden years」は、
当初、エルビス・プレスリーに持ちかけたが
断られたそうだ。

Marc Chagall / 「 無題 」
おや、右端の下に、ピカソもどきが顔を覗かせている
ピカソが嫌い だということがこの無題作品で読めた。
もしかして 嫉妬?
ほんとは好きだったとか?
ピカソはモテただろうな
シャガールは
たった一人の妻を愛しつづけたことで
愛の画家と呼ばれているそうだが、
本当にそうか?
もしかしてピカソの奔放な生き方に憧れていたのではないか?
シャガールは、
作風も斜に構えた感じがあって
ちょっと、暗いもんね
ピカソが太陽なら シャガールは月だ
勝手にシャガール!
なんて、自前談義は楽しい。
選曲: DAVID BOWIE /
「MOON OF ALABAMA」
詩: ブレヒト (Bertolt Brecht,1898-1956)
曲: ワイル (Kurt Weill,1900-1950)
シャガールが退廃的なムードを醸し出すから
ムーン(月)繋がりでこの劇中歌を選んだ。
原作:ベルトルト・ブレヒトの詩集
「家庭用説教集」
中の5つのマハゴニー・ソングを
編集したジングシュピール(ドイツ語による歌芝居)「小マハゴニー」
初演:1930年3月9日
まだワイルがベルリン時代にブレヒトとの共同作業で作った歌芝居のひとつ
マハゴニー市の興亡」の中の一曲 なぜかこれだけ英語の歌詞です。
ブレヒトは三文オペラが有名だ
理由は分からぬがこの曲は
デビッド・ボウイもそうだが
ドアーズのジム・モリソンも歌っている

Marc Chagall / 「 恋人たち 」
男は幾つになっても
母を求める生き物なのだろうか?
どんなに厳ついマッチョな男たちも
どこかで、女性に母性を求めている
ような気がする
俺は命を賭けて愛するお前を守るぜ!
だった男がいつしか母を求めてくるのだ
そのことがバレると
今度は女性が冷めていく
何故なら 女性は男に
永遠の父性を求めているからだ
勿論 これは日本以外のお話ね
選曲:DAVID BOWIE / Wild Is the Wind
この歌詞も素晴らしい
こんなラブレターを交わす英語圏の恋人たちと
アジアに暮らす私たちとはどう考えても
違う生き物だと思う

「 Marc Chagall に BOWIE を選曲する 」
ここで終了です
この回は シャガールとの想像を絶する遭遇で
いきなりボウイをアテ振り選曲する衝動に走ってしまった
尚:シャガール作品は所有者の許可を頂いた上で紹介させて頂いております。
さて 由布院の旅は その 3 へ つづきます
次回は由布院の歴史を少し紐解く予定です
題して
由布院の歴史に「 何が 」あったか?
ではなく「 誰が 」 存在したか ?
歴史の真髄は人なり
つづく
画像・文
初代選曲家 桑原 茂→
http://freepaperdictionary.com
ps: この回の選曲は
こちらでお聞きになれます
Pirate Radio / 海賊船
https://www.mixcloud.com/moichikuwahara/
情報
CAFE LA RUCHE
Cafe La Ruche
0977-28-8500
大分県由布市湯布院町川上1592-1
https://tabelog.com/oita/A4402/A440201/44000040/

マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887年7月7日 – 1985年3月28日)は、
20世紀のロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家。
生涯、妻ベラ(ベラ・ローゼンフェルト)への愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」と呼ばれる。
シャガールは1910年パリに赴き、5年間の滞在、この最初のパリ時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。
1915年に母が病死。同年にベラと結婚。10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活するが、ベルリンを経由して1923年にはふたたびパリへ戻る。
ロシア時代のシャガールはロシア・アヴァンギャルドに参加して構成主義の影響の濃い作品、デザイン的作品を制作したが、出国後の作品は「愛」の方への傾斜が認められる。
1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。
1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1951年、彫刻制作を始める[1]。1952年、当時60歳代のシャガールはユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚した。
1960年、エラスムス賞受賞。
同年、当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはオペラ座の天井画をシャガールに依頼。
これは1964年に完成している。1973年、86歳の誕生日に、ニース市に「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」が開館した。
1966年から20年近く暮らした、ニースに近いサン=ポール=ド=ヴァンスの墓地に眠る。
「マーグ財団美術館」に大作がある。
毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。
特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下している。
シュルレアリスムに共感を持てず、自分のことを「シュルレアリストと呼ばないで欲しい」と語っている。
アポリネールは彼の作風を“シュルナチュラリスム(超自然主義)”と呼んだ。