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牧野 広志 AUG 21,2018

上終町。Vol.1 東西南北ハイソの中で生きるサブカル文化。


ちょっと足を北白川まで、
ずいぶんお世話になった町、上終町。

上の終わりの町、
京都の町の名前にはいろいろな言われがある。
血洗町だとか、蹴上だとか、恐ろしく生々しい名前の土地があちこちに存在する。
名前の通りの事が行われていたのだろう・・

そうここは上の終わりの町、この先に町は無かったとか・・

この地には京都造形大学を構え、その周辺はいわゆる一種のアングラ的な若者が集まっている。

俗に言うサキョーカーだ。

少し記憶を遡ろう。

今から30年以上前に「ホワイトハウス」と言う名の古い洋館喫茶店が細い庭路地の奥にあった。
店内は昔ながらなので自動的にアンティークの塊になる。
戦時中は横文字禁止と言う事でホワイトハウスと言う名前を「白い家」と名乗り営業を続けたそうだ。

このお店が好きだったのだが、今は跡形も無く新しい住宅街になってしまっている。

そして、その好きだったホワイトハウスはどこにあったのかも完全にわからない。
記憶の奥にはひとつ悲しみが増えたままだ・・・

ハイソな街のハイソな一軒。

さて、

白川通り上終町から西に高原通りを進めば哲学の道がある(哲学の道の延長上)、
その白川沿いには養豚場があった。

信じられるか?

こんなに上品な住宅街のど真ん中に、、

天気が良く風の気持ち良い日には養豚場からなんとも独特な匂いがふわふわとやってくる・・・

ただただ柔らかく臭い・・・

鼻に着いた匂いは今でも粘膜の奥に染み付いており、時たま同じ様な匂いがすると、その時の風景や記憶を思い出してしまう。

それほど強烈だったと言う事だ。

ここには、江戸の「トキワ荘」、京の「安田荘」と言われたアパートが存在した。

いやまだいまも静かに存在している、、

アパートと言うか実際は倉庫と言って良い。

三階建ての倉庫の二階三階部分を細かく区切り無理から人が住む住居として作り上げた城だ。

共同トイレに共同洗濯機、共同の水道にガスコンロ、ピンクの公衆電話、
ブロックとレンガと錆びた鉄枠の窓にトタン板で囲われたアパート、
屋上には洗濯物を干す為にロープが数本張られていた。

当然、シャワーもお風呂も無い。

部屋は鉄骨むき出し、床は隙間から下が見える板張りで土足生活。

世に言うお洒落てやつか・・・?

私の部屋は202番、
冬は寒く、夏は暑い。

なのに人はこの安田荘に憧れて住む、、

常に空き部屋の順番待ち状態であった。
・・・。

白川通りを西に渡れば別当町から高原、
少し南東に比叡山山中越には仕伏町とハイソで気品と上品な昔ながらの高級住宅地があり、
町家では無く、古い洋館や、大きな屋敷が静かに建ち並ぶ。

上終町は東に瓜生山を持ち、その山の斜面には京都造形大学が広がる。
まさに芸大の地。

その山の斜面のふもとには墓地と雑木林が鬱蒼と、その中にポツリと一際はダークなオーラを放つ安田荘はまさにサブカルの聖地の一つと言っても良いだろう。

いわゆる完全にアウト系・・・

ポップな白川通りからお地蔵さんのある私有地に徒歩50歩ほど奥へ、
何故かこの街とは似付かない雰囲気。

長年ここに部屋を借り、寝泊まりし、いろいろと使いこなしていた。

このアパート、部屋数は18ほど、
歴代住んでいた住人がこれまた強烈である、、

学生闘争時代から受け継がれた人々、そこに新しくサブカルチャーが混ざり合い、まさに公安のターゲットだったのかも、、、

その部屋で私の過ごした85年から90年代半ば、
様々なアーティストが住み、そして出会い寝起きを共にし、いろいろな人が遊びに来た。

時は80年代頭、北白川バッティングセンター、通称“キタバチ”で「5.21」事件のメンバーと出会い、そのまま音楽界へと真っしぐら。

当時、高原に音楽事務所があり、そこに出入りする日々が続く事となる、、
まさにこの時代の安田荘は怖いもの知らずであった。

この濃い話の続きはまたゆっくりとしたい。

さて、いつもの美味しい名店物語。

上終町、白川通りを渡れば四川料理の「駱駝」、「おおきにや」、
カレーの「ガラムマサラ」、
少し北に行けばラーメン「天下一品総本店」。

白川通りを徒歩ですぐ別当町の交差点付近には今は亡き、
中華の「やまぐち」、
“北白川の高倉健”と呼ばれた大将の「蛸安」、
定食「たかさご」とよく通ったものだ。

今でも現役の定食屋「大銀」、喫茶店「ジュネス」、
どのお店も当時の私のお腹を満たしてくれた。

そんな中でもお気に入りの一軒が「季節料理 ちくりん」。
とにかく素朴であり家族経営の良さが詰まりまくった名店中の名店と言っても良い。

「ちくりん」に来ると何故かどこか知らない街に旅に来てたまたま入ったお店が“ビンゴ!”的な雰囲気がある、

そして、毎回旅先で通うお店の様になってしまった。

遠過ぎず近過ぎず、程よい会話と真のおもてなしを感じる家族に出迎えられ、先付けからスタートする。

このお店の素晴らしさは微妙に伝わり難いが、京都リピーターには心底喜ばれると言う点で本来あるべき姿の小料理屋なのかもしれない。

季節料理なので、その時期にあった食材で私の思う本当の意味での“京料理”を作ってくれる、

夏場の鱧、
鱧にゅうめんが大好物です。

しめ鯖も口に合う。

季節野菜のかき揚げサクサク。

うまい!

カウンターだけの店内はお客さんも非常に上品であり、別当町 仕伏町 上終町 ならではの地域独特である空気感は一言では言い表せない、、、

が、

居心地が良いと一言付け加えておこう。

とにかくあの暖簾をくぐって入るには勇気がいるそうだ。
(行きたくて店前まで何度もチャレンジした方々の談)

すっかり顔馴染みになっている「ちくりん」で静かにお腹を満たすのが私の楽しみの一つでもある。

北白川別当町をさらに南にCBGBの跡地を越え銀閣寺の交差点へ、
つい最近まで「銀閣寺アイスキャンデー」があったのだが、突然の閉店で創業70年の歴史に幕を閉じた。
急な話しで気が動転した人も多いだろう。

ここ今出川通を東に向けば五山の送り火でも有名な大文字山。

西へ哲学の道沿いには「ラーメンますたに」、

餃子の「白水」、
吉田山の消えた「屋台」、

さらに進めば、

1930年創業、憧れのノートル・パン・コティディアン、京都大学農学部横の「進々堂」。

そして話題の百万遍交差点へ、、

南東角には京大伝統の立看板、今尚闘っている。

南西には西部講堂、

東の武道館、西の西部講堂と正にバンドマンにとっては一つの着地点であろう。

その、西部講堂裏の楽屋入口には畑があり、簡単な料理ができる様に水道やキッチン的な台が装備されている。
妙に親近感と生活感と緊張感が混ざり、いろいろな事に耐え忍んだ他には無い独特な空気を醸し出している。

西部講堂に出入りしていた若き日の自分はまさに音楽と一心同体であった。

この西部講堂から東大路通を南に数百メートルも歩けば、伝説の吉田寮である。

先輩に連れられて、軽音楽部にバンドメンバーのスカウトに行く、
なかなか強烈な閉鎖感はこれぞ吉田寮と言った感じだ。

一人でふらりと行く事も良くあった、、
当時を振り返ると、あの時代は良くも悪くもパンチのある時代で、一人で吉田寮に入って行く人てそうはいなかったのかも・・・

今はもう入り口にあった建物も無くなってしまい、

なんとか吉田寮は残ってはいるが、、

ここは京都の文化として残しておくべき場所でしょう。

と、

私は思うのですが・・・

吉田寮を後に東大路通を北に向かう。
御影通を西に行けば元田中、
この元田中にも崇仁地区にあるフライの店が存在する。
店の名前は無い、駄菓子屋的な店構えで入り口の横でミノとレバーのフライを揚げており、
この地区ではフライを洋食 赤 白 と呼んでいた。

通りを東に行けばハイソな街に戻って行く。
なんともサブカルとハイソが混ざり合った地域、

そこに住み、その地を愛し、その地区から出ず住ごす人をいつ頃からだろう?
サキョーカーと呼ぶようになった。

やはり、上終町に君臨する造形大の影響もあるのか。
ポップな芸大と、闘争イメージを未だにつけられている京大、この2つの大学が作り出す存在感は、この地域と街に妙に違和感はあるのだが、何故か絶妙に溶け込んでおり、
その絶妙な違和感が左京区サブカル文化の一つであり、地域密着感である事は確かだ。

住民と学生、

この関係は京都と言う10人に1人は学生と言われる地にとって非常に大切な発信力である。

1000年を越える老舗もあればベンチャーもある。
サバイバル文化と呼ばれるここ京都にとって、サキョーカーの存在は重要な役割を果たしているのかもしれない。
白川通り上終町の京都造形大学、
ソフィスティケートされたこの一角に住む学生と住民は、地域ならではの優しく緩やかな関係性を保っているのだろう。

レペゼン左京区。

比叡山から吹き下ろす風は冷たく、心底冷える。

それでもこの街から出ず、この街で全てを済ませる。

彼らサキョーカーはここに京都の独特の文化を作りあげた。

その最先端を走ったひとつが上終町 安田荘だったのかもしれない。

大きな土地開発はさほど無いと感じるが、じわじわと街は変わっている。

北白川バッティングセンター キタバチが無くなってしまった事はこの上終町にとって身体の一部をもぎ取られてしまった様に思う。

とにかく不思議な町である事は確かであり、
歩けば歩くほど、この町の魅力に取り憑かれ離れられなくなる。

貴方もきっとその一人になる時がくるかもしれない。

上に終る町。

この先は無い。

夏一番暑いこの日に、

陸の孤島へようこそ。

そして我が母校でヴェルディのコーヒーを一杯頂く。

PROFILE

牧野 広志 TRAVELING COFFEE 店主

1966年生まれ。
94年渡仏、90年代をパリ ルーアン リヨンで暮らす。
2002年 帰国後、京都の新しい情報発信空間の提案者として文化と地域に密着中。

-TRAVELING COFFEE -
昭和2年築の木屋町 元・立誠小学校 職員室で営業していたTRAVELING COFFEE が耐震補強工事の為に高瀬川沿いに建てられた仮設の立誠図書館内で営業。
図書館の選書はブックディレクター「BACH」幅允孝氏。
珈琲はブレンド2種類に加え、シングルオリジンは京都府内の焙煎所を毎月選び焙煎家と話し合い常にオリジナルを4種類程オーダーメイド。

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