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落合のダッチワイフ AUG 31,2020

Hey!凡な日々 Vol.32
~コンビニ店員から客へ~


最近「伝わらねえなあ。」と思うこと

私は病院内の売店で働いている。毎日レジを打っていれば看護師と友達の二歩手前くらいまでの関係性は築ける。
私の眼(ここは敢えて「まなこ」と読んで下さい。)はコンビニ店員にしてはサービスというものからかけ離れているし、おにぎりを陳列しレジを打つだけの閉塞的で単調な仕事なのにも関わらず世間の方向を見ては、「必ず分からせてやる」みたいな意志を全身から醸し出しているし、とにもかくにも一目見ただけで只者ではないと分かるような演出を自ら行っていることもあってか、よく看護師達に「何をしている方ですか?」と聞かれることがある。
満を持して「お笑い芸人です。」と答えると、「え?そうなんですか?何かTwitterとかで分かるのありますか?」と聞かれ、「落合のダッチワイフです。」と何故このような卑猥な名前にしてしまったのだろうと、悔やみながらも自己紹介することになる。
とは言っても、テレビ出演はないしフォロワーも2000人くらいですし、Twitterのアカウントを見てもらっても「売れていない」ということは一目瞭然であり、雰囲気の割に大したことねえじゃんと思われてしまうのが関の山。であれば、「可能性」とか「伸びしろ」と言った極めて曖昧なもの、がしかし私的には確かなものを看護師達に感じてもらう必要があり、そこで利用させて頂くのがこの「URBAN RESEARCH MEDIA」である。横文字だから恰好が良いし、声に出して言うと尚良しで、かつ「アーバンリサーチ知ってるよ!」となるので、毎回「まだ売れてないよ俺なんてURBAN RESEARCHでコラム書いてるけども。」と言う訳である。すると大体が「読んでみます!」と言ってくれるのであるが、その後会っても特に感想は言ってこないことがほとんどなのである。
最近才ある友人達とZINEという小冊子のようなものを制作し、私の活動を応援してくれているであろう看護師の姉ちゃん達に配ったが、「まだ読んでないのごめん。」とか彼女達は面と向かって平気で言いやがる。
私のやっていることが伝わらないのである。

見てすらもらえていないので、伝わる伝わらない以前の話かもしれないし、人から貰ったものを一週間が経過しても目を通さず平気で「見てない。」と堂々と言ってしまえるような感性、価値観の持ち主なのだから、例え目を通してもらえたとしても、私がそこで何を言ってるかは伝わらないだろうと思う。
仮に「見てもらえる」というところまで辿り着けたとして、そこから私の言っていること、考えていることを彼女達に伝える方法は何かと言うと、「分かりやすさ」の導入である。具体的に言うと単純にクオリティーを落とす作業のことだ。実際にクオリティーが下がっているのかどうかは知らないが、コントを作っている時も文章を書いている時も「更に伝わるように」と手入れをしている最中が一番作っていて面白くない時間が流れていて、「つまらなくしている」と確かに実感している。私が作ったものであるから、個人的に感じたことがこの場合は全てで、やはりクオリティーを下げているに違いないのである。二度と下げない。信じている。

分かり合えない事実

先日バイト先でどうしても許せないことがあり、感情的にならず相手の意志を尊重しつつ、論理的に意見をしたのだが、返し刀で「は?喧嘩売ってんの?」みたいなことを言われてしまい絶望した。私はきちんと説明すれば、真摯に言葉を使えば、誰にでも必ず伝わるであろうと信じていた節があったようなのだが、それは大きな間違いであった。同じ言語を使っている者同士でも使い方が違うだけで、取り返しのつかない程の深い溝が出来てしまったりするのである。互いに社会人と呼ばれる年齢を過ぎたのであればその溝を埋めるのは言葉以外の何かで、例えば殴るとか脅すとか至って直線的でフィジカルなことの方が効果的だと私は悟ってしまった。

Twitterで何か自分の考えを伝えようとした時、これにどれ程の意味があるのだろうかと考える時がある。「いいね」を付けてくれるのはいつも同じ人達だし、フォロワーというのは私がどのような人間なのかを事前に知ってくれている。物凄くアットホームかつ閉鎖的な空間で何かを言うことに最近私は疲れている。
普段からこのコラムを読んでくれたり、面白いと感じてくれている人は、きっと私とどこか似ているのだろう。互いに分かり合える部分があるのだと勝手に感じている。
私はそのような空間から脱却したいと常日頃から思う。もしくはその空間を更に拡大して、日本全土を覆いたいとも思う。本気だ。
私とは全く違う要素で形成されている人々をフィジカルなやり方以外の方法でぶん殴るにはどうしたら良いのだろうか。そんなことを最近は考えている。ちなみに古典が偉大な理由はそこにあると最近思った。

とにかく早く売れてえ、とか分かってくれ~とか分からせてやる~とかそんなことを考えながらレジを打っていると、阿呆みたいな訳の分からない客が来て、拳でぶん殴ってやりたくなる。私は死ぬまで客と分かり合えないと思う。だとしたら燃えるではないか。こいつらに伝えるにはどうしたら良いのだろうか。
その答えは「URBAN RESEARCH MEDIA」である。滑らかかつスタイリッシュでSNSとは違い開けているこの空間で、交わることのない客に問い掛ければ良いのだ。このような場を持つ私はなんと恵まれているのだろう。
私のコラムを読んでくれた人達に感想を聞くと、毎回「長かった。でも面白かった。」と言われる。なので、今回のコラムは残り200文字で締めようと思う。

コンビニ店員の憂鬱
~レジ袋の有料化~

最近レジ袋が有料化された。そのことで私の神経は日々魚なでされている。正しくは逆撫でであるが、このことを考えるだけでイライラしてきしまい、もう一文前に関しては「魚で」で行こうかと思う。レジで魚を撫で始めてしまう程、レジ袋のアレコレに苛立っているのだ。「袋持ってきてます。」とい言う客がいる。「だから?」と毎回思う。だからなんなのと。「袋を持ってきている」=「袋がいらない」ということくらい私にだって分かる。じゃなくてはコラムなんて書けやしない。寧ろ私がコラムを書けるのは、ここら辺に口うるさいからである。
1日に何百人とレジを打つ。それを月20日間以上×3年間している。「いらっしゃいませ」「○○円となります。」「かしこまりました。」「青く光りましたらタッチお願い致します。」「ありがとうございました。」「レシートはよろしいですか?」を毎日毎日言っていると、2年目辺りで自我が無くなってしまう。「ルーティーン」という言葉の語源には「思考の欠如」という意味があるとどこかで読んだことがある。自我を喪失することより、我々レジ店員はベルトコンベアのように無意識に作業をこなしていく。
そこで「袋を持ってきてます。」と言われると、我々は一度人間に戻らなくてはならない。赤いスイッチを押してコンベアを止めなくてはならいのである。そして思考を巡らせ「袋を持ってきているということは、袋は買わないということか。」と文脈を読まなくてはならない。そしてまたベルトコンベアに戻るのである。些細なことに見えるかもしれないが、このベルトコンベアから人間に戻り、またベルトコンベアに戻る大胆な七変化は、実際やってみると異常な程に疲れるし、非常にストレスフルなのである。
このコラムを読んだ客は、「袋がいるのか」「袋がいらないのか」をハッキリ提示するように私と約束して頂きたい。

~勤務態度について~

店にクレームを入れてくる客が大勢いる。私の名前を出して「不快になった」と言われる方が多いのだが、一体どうのような了見なのだろうが。実際私の勤務態度がどのようなものかというと、先程からお伝えしている通りベルトコンベアそのものである。しかもとても速い。私は誰よりも早いコンベアだと自負している。
去年客としてコンビニに行った時、とても感じが良くニコニコしている店員、所謂勤務態度の良い店員がいた。その店員は「感じの良いレジ打ち」はお得意のようだったのだが、「早いレジ打ち」が苦手なように見えた。私がコンビニに行く理由は、コンビニで売っている商品を買うためだけであって、店員とコミュニケーションを取ったり、感じの良いことをされるために行っている訳ではない。とっととレジを打ってくれればよいのである。にも関わらず彼は微笑みながらレジをちんたらちんたら打っている。感じ良くされている客も感じ良くしている店員も気持ちよさそうにしていた。人生初のクレームを入れようかなと悩んだが、クレームを入れたという歴史が私の人生にいらなかったので、諦めることにした。
レジ店員は感情、人情、心、人を思う気持ち、喜怒哀楽等々の人間らしい要素を全てスピードという項目に割り振るべきだと私は考えている。5点満点の五角形のパラメーターがあったとすれば、25点をスピードに振って、全体で見た時に棒のようなパラメーターを目指すべきなのである。

私は徹底的にスピードを追求している。「愛想が悪い」「気分が悪い」等々のクレームに負けず、圧倒的なレジ打ちを追い求めたのである。理解してもらえないのは悲しかったが、私は職場のスタッフに恵まれていて、皆が背中を押してくれた。
現在の私のあだ名は「スピード」である。例えば私のレジ打ちを見て、「チーターかよ!」というのは非常に的外れである。
「新幹線」を見て「チーターかよ!」とツッコムのはおかしい。この場合新幹線より早いものを言うのが比喩ツッコミの基本である。
私のレジ打ちには比較対象がなく、寧ろ何か物凄く早いものを見た時に「落合かよ!」という感じに店内はなってきている。故に私の名は「スピード」なのである。
最近では客を追い抜いてしまい、客が僕の前に来た瞬間に会計が済んでいるということもある。とにかく速いのである。がしかし、それでもクレームが入ってくる。「不快」というのは一体どうゆうことなのだろうか。気持ち良く買い物をしたいと考えていること自体が間違っているのはないだろうか。コンビニは商品を買う場所であり、店員とコミュニケーションを取る場所ではない。真顔で余計な言葉を発さないが、ひたらすらにレジ打ちが速いコンビニ店員を褒めるべきである。愛想がどうこうという「側」の部分より、「中身」を追求している人間がいつか日の目を浴びることを私は切に願っている。
「側」の部分で一喜一憂出来るのは、恥ずかしいことだと私は思う。
このコラムを読んだ客は、今後とにかくクレームを入れないことを約束して欲しい。でなければ、私は食えなくなる。

終わりに

「客」と「店員」という言葉が無くなればよいのにと最近思う。まさにコントなのである。皆が「客」という役割を自覚的に担っている。「客」になると本来生まれてこなかった感情が生まれだす。これは実体のない、というか皆で日々作り出している「客」の気持ちである。
見知らぬ人にいきなり怒鳴りつけたりすることは難しいのに、「客」になると大きな声を出し相手を罵ったり出来るのはとてもおかしなことだと思う。
私は自分を「客」だと思ったことがないので、「俺は客だぞ!」などと言ったことがない。これを言ったらお仕舞なのである。常に「俺は俺だぞ!!!」という気持ちで入店しているので、「客だから」という理由で怒ったりはしない。皆も客としてではなく、自分として入店し、店員も自分として働けば、知らない人に道を聞く感じで、または教える感じでやり取り出来るのではないかと思った。でも本当にどうでも良いと思う。
最後に大胆にも未来予想をして終わろうと思う。

2070年への考察

2070年、AIの発展と共に多くの人々は職を失った。人間が何をしようともAIの処理能力に勝ることは出来なかったのである。そんな中とある病院内の売店で一人の人間がアルバイトをしていた。落合のダッチワイフである。
2020年代、彼は過剰とも言える程にスピードを追求しすぎた結果、数々の批判を浴び一時はクビになりかけたこともあった。しかし彼はめげずにスピードに命を懸けた。2040年代彼は完全なるベルトコンベアーと化した。実際に化した。2050年に入りAIが徐々に人々の仕事を奪っていった。落合のレジ打ちを見た店員達は「まるでAIのようだ。」と言った。
その後その店員達も消え去り、落合のみが残った。
彼の処理能力はAIに比べると遥かに遅い。がしかし、AIより人間味があった。愛想があったのである。
彼は無機質な表情、機械的な発声で「ありがとうございました。」と言って、右腕のベルトコンベアをまた回転させ始めた。

PROFILE

「お笑い芸人になりたい」と思い、新卒2ヶ月で勤めていた銀行を退社。
プールサイドというコンビ名で活動中。
毎週日曜21時からインターネットラジオ「プールサイドの25Mラジオ」を生放送中。趣味はラジオ投稿。
現在はコンビニでバイトをしながら。日々の生活を楽しんでいる。

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