外部サイトへ移動します
落合のダッチワイフ NOV 02,2020

Hey!凡な日々 Vol.36
流行り病~遺族の無責任コラム~


流行り病

自殺について書こうと思う。理由は語弊覚悟で言うが、最近流行っているからである。
流行るという言葉が不適切だと感じたのであれば、それは「死」というものを漠然と「重いもの」としか捉えられていない証拠だと僕は考える。一人称を「私」としないのは、自分が自殺しない証拠などどこにもないからである。僕は皆と同じだ。
自殺報道後に自殺が増える事象を指すウェルテル効果と呼ばれるものがある。
例えば自殺を考えている人間がこのコラムを読んでいたと仮定する。僕はひたすらに「死ぬな」と叫びたいが、叫んだところで何も変わらない。しかしそう思いながらも書くのは、数打ちゃ当たる、要するにラッキーパンチが当たって誰かが生き延びれたらのなら、その名の通りラッキーだと思うからである。その程度の熱量で書く。

自殺に関して僕が書く、書けるもう一つの理由として父親が自殺しているからというのがある。サッカー経験者がサッカーの教則本を書くのと同じで、僕にも少なからず書けることがあると思う。使命感は全くない。
テレビなどから流れる自殺に関する報道は自殺した人間に関するものばかりで、遺族についての内容が一切ない。当たり前である。家族に自殺者がいる人間は、その後どうなるのか、何を思うのか、そういったことを想像することは中々難しいと思う。そんなことを自らベラベラと語る遺族も中々いない。僕は阿呆である。ベラベラと饒舌に書いていこうと思う。
それによって何も起きないかもしれないし、何か起こるかもしれない。こんなことは無責任でなければ書けない。

父親が死んだ日

父親は僕が小学生の時に死んだ。当時父の狂った金銭感覚が元凶で落合家は別居状態であった。母の財布からクレジットカードを盗んだり、パチンコに明け暮れたりと所謂最低な父であったが、僕と母はそうは思ってなかった。だから毎週末は家族でいつものように出掛けていた。
とある水曜日、父と話そうかと思い父の実家に電話を掛けるとおばあちゃんが出た。父と話したいと伝えると、彼女は「今呼んでくるからね~」とかなんとか言って二階の部屋へと上がっていった。おばあちゃんがミスったのは電話を保留にしなかった点だ。ドドドドドドドという音がした、誰かがものすごい勢いで階段を降りてくる音、あの音が頭から離れない、そして「パパが死んでる」とおばあちゃんは叫んだ。僕は咄嗟に受話器から耳を離し、リビングにいる母に「パパが死んでるって!!!」と伝えた。母が僕と電話を変わってから切るまでの記憶がない。電話を切ったあと、母が「今救急車を呼んでるって、大丈夫よ」と涙を溜めながら言って、僕は父が死んでいる、もしくはまもなく死ぬのだろうなと思った。その日が水曜日だと覚えているのは、その時僕の頭が濡れていて、濡れていたのはその直前にスイミングスクールに行っていたからである。毎週水曜日に通っていた。何故か水曜日であったということが今の僕にはしんどくあり、何故しんどいのかはよく分からない。

まあ、こんな感じである。この時のことを何度も頭の中で回想しているだけあってか、割と辛くない。回想し過ぎて慣れたのかもしれない。この父親が死んだ日のエピソードは僕にとってもこのコラムにとっても大して重要ではない。重要なのは、父がいなくなってからの周囲の反応である。

通夜とSNS

通夜の日の夜、父の友人達が父の実家に集まっていた。長いテーブルの上に普段では食べらないような寿司がたくさん並べられていた。顔を赤らめる父の友人達を見て、僕は祭りだと思った。まるで宴会。
そして奴らは「今頃あいつ何してっかな~」「あいつは優しい奴だったよなあ」と好き勝手に回想を始める。僕は部屋の隅で母の生気のない表情と、饒舌に父を語る奴らの気持ちよさそうな顔を交互に眺めていた。ものすごいスピードで父が思い出になっていくのを僕は見た。これは消費である。死んだ父をいち早く死んだことにするために、自分の生活に支障をきたさない程度に悲しむために、父という存在を過去に葬り去る作業のようなものだ。

芸能人が自殺をすると必ず、故人が生きていた頃、できるだけ楽しそうな表情を浮かべている写真と共に追悼の言葉をSNSに上げる人達がいる。「できるだけ楽しそうな表情を浮かべている写真」をネットで探している最中、自分の冷静さによく呆れないでいられるなと僕は思う。それをすることで自分を保てるというのであれば、僕はよいと思う、が、自分の生を優先していることを自覚すべきだと思う。SNSに追悼のコメントを投稿した途端、少しでも自分の気持ちが楽になっていたら、それは父の友人達がしていたことと全く同じである。そういった人達は、故人をより過去のものとする運動をしていると認識すべきである。

この世界では生きている人間が優先

散々言ってきたが、故人を消費するような行動に僕は割と肯定的である。というのも父が死んだ直後、僕は学校が楽しくて楽しくて仕方がなかったのである。しかし友人の冗談で笑う度に父が死んだという事実が頭によぎり、父が笑いの効果を薄めてくる、ということが多々あった。
喪に服した感じ、その雰囲気を鬱陶しい、父のせいで学校をENJOYできない、いつまで暗い顔をしてればいいんだろう、等々を疑問に思った僕は、ある日母に「学校で笑ってもいいのか?」という質問をした。母は「いいのよ、生きている人優先だから。」と答えた。この言葉は僕の一生を支えるものとなった。
僕は生きるためであれば、父を失った痛みを忘れることに抵抗がないし、父の存在そのものを忘れてしまってもよいとさえ思っている。母も僕も父の墓参りをしたことがない。僕に至っては墓の場所さえ知らない。

今思い返して一番恐ろしいのは父が死んだことよりも、のこされた母と僕の図太さである。今こうして我々が呼吸しているのは奇跡に近いように思う。過剰な程に繊細であるはずの僕が今もこうして27年間も生きていられるのは、最早性格云々の話ではなく、もっと人間の奥底で蠢いている生への固執を原動力としたなにかによるものだと実感している。それは卑しさにも繋がるだろうが、そうして僕はここにいるのだから認めざるを得ない。認めた上で僕は父を暇なときに思い出したり、忘れたりするのである。「生への固執を原動力としたなにか」のなにかを言葉にできた時、殆どのことが面白くなくなると同時に人が大勢死ぬと思う。がそんなことは誰にもできやしない。

分からない

去年ふと思い出したことがある。それは父に運転席で抱かれていた時、父の腕に切り傷のようなものがあったことだ。母に確認してみると、父は以前にも自殺を図っていたことが分かった。そしてそれから父は何かを乗り越え、生き、僕や母の前で笑ったりして、結局自殺したのである。

SNSの話に戻る。自殺報道を受けたあと「助け合って生きようね」「何があっても死んではいけない」等々の投稿をする人間が必ずいる。そのメッセージの中に絵文字や「!!!」などは一切使われず句読点のみで綴られているのは、冷静に「死」に見合ったトーンを視覚的に調整しようという魂胆からだと考えられる。
自分と面識のある人間が自殺をした時、故人への追悼メッセージをSNSに投稿する理由はなんなのだろう。全く理解ができない。僕だったら絶対にしない。届かないはずの言葉を、故人以外の不特定多数に向けて放つのは何故だ。
SNSでよく使われる「エモい」という言葉が大嫌いなのだが、上記で挙げたような投稿を見ると、「なんかお前「エモい」感じになってね?」と僕はついひねくれてしまう。
死にたいと思っている人間に対してましてやネット上で「何があっても死ぬな」と言って何かが変わるとしたら変わったのはきっと投稿者の方だし、死んでしまった人間に向けたメッセージを見るのは、生きている人間のみである。
彼、彼女達は死を漠然と「おもいもの」と捉えているような気がしてならない。
死はとてつもなくリアルで、必ずこの世の全員が体験する。そしてめっちゃ軽かったりもする。よく分からない。

メンテナンス

大学生の時、父が何故自殺をしたのかが急に気になり出し調べ始めたことがあった。父が死ぬ直前に僕は父の部屋に遊びに行ったことがあり、その時に今思えば遺書だと考えられるものが床の上に置かれていたのを発見した。父が「見るなよ」と言ってトイレに行ったのを覚えている。あそこで僕が見ていれば彼は死なずに済んだのかもしれない。若干不安になり母に「自分を責めたことがあるか?」と聞くと一度もないと言う。死にたいと思っている人を止めることは難しいと言っていた。
結果的に何故死んだのかは分からなかった。途中僕は頭が狂ったように父の死因に固執し、母を含めた父のことを知っている人達に毎日のように電話を掛けまくったりと大勢の人に迷惑をかけた。とある日美容室に行くと、ストレスで皮膚に炎症が起きていて少し頭皮が薄くなっていると美容師さんに言われた。そんなことでハゲたくはなかったので、二度と考えないことにした。
落合家はごくごく普通の一般家庭であり、金にも困っていなかった。なのに何故か父は借金を繰り返し、最終的には自殺をした。父の死因は未だに謎なのである。

「死ぬ覚悟があるのなら、死ぬ前にもっとやれることがあったのではないか」と思う。
自殺する人間の気持ちが全く分からないのである。しかしそれは自殺する気のない人間の考え方であり、生きることが目的とされた我々の身体が現在正常な証拠でもある。つまり自殺したいと思うのはどこかしらが異常だということになる。つまり病気だと僕は考える。
自分のどこかしらが正常でない時に、一生を終わらすか否かという決断をするのは少々急ぎすぎなような気がしてならない。どうせ死ぬのであれば、フラットな状態でいるときに、断固たる決意で、それが何よりも正しいことだと信じて死ぬべきだと思う。しかし正常な状態であれば、自殺しようなどとは思わないのである。おかしいな、と感じたら、その状態でものを考えるのではなく、おかしい状態をまずなおす、メンテナンスするところから初めてみるのはどうかしら?と思う。つまりは、流れで死ぬなと言っている。

最後に

父が死んでから、僕と母は普通ではあり得ないような生活を送っている。それは今も呪いのように続いていて、例えば実家が無くなったり、昨日なんかは僕より3つか4つ年下の弁護士に「母をよろしくお願い致します。」と電話越しに頭を下げたりして変な気持ちになったり、ここではとてもじゃないけど書けないような状態になっていたりする。死ぬことも辛いかもしれないが、家族を失いながら生きていかなくてはいけない方も結構しんどい。我々には絶えず意識が流れている。それが辛い。死にたいと思ったら、自分を愛してくれる、もしくは愛している人の顔を思い浮かべて欲しい。母はたまに「死んだ方が楽だ」と言うことがある。大切な人を殺したくないのなら、そいつらのためにも生きるべきだ。母が自殺したらきっと僕も自殺を考えるだろう。
どうしようもねえ、となっても、どうしようもないのはその環境の中だけの話であって、自分が思う世界というのは自分が今、目に見えている範囲の中を差しているに過ぎない。環境ごと放棄して逃げればよいと思う。世界は広いらしい。
僕は今カップヌードルを食いながらこのコラムを書いている。深夜二時二十三分。死ぬ程美味い。明日も食べたいなと思う、そんなことで頑張れたりする。たのむわ。死ぬな。死ぬことから逃げ切ってみやがれ。

PS
最近、クラウス・ベルンハルトという人が書いた「敏感過ぎるあなたへ」という本が超面白かったので、不安に吞まれている人は読んでみるといいよ~。不安の正体、脳の構造等々が書いてあって、不安ってのはなんなのかってことが論理的に分かれば、つまりは知識で感情に勝てば、割と色々変わると思う。

PROFILE

「お笑い芸人になりたい」と思い、新卒2ヶ月で勤めていた銀行を退社。
プールサイドというコンビ名で活動中。
毎週日曜21時からインターネットラジオ「プールサイドの25Mラジオ」を生放送中。趣味はラジオ投稿。
現在はコンビニでバイトをしながら。日々の生活を楽しんでいる。

FEATUREおすすめしたい記事

page top