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落合のダッチワイフ DEC 01,2020

Hey!凡な日々 Vol.38
停滞するということについて


重いものを別の場所へと運ばなくてはならないときがある。僕が荷物をせっせと運んでいると一定の確率で「もっとこう持った方がいいですよ」とか「こうした方が楽じゃないですか?」と言ってくる人間がいる。「そうですよね!」とか「あ~確かに!」と言って一度重いものを置いて、アドバイスをくれた人間の言う通りの持ち方に変える訳なのだが、内心どうしてそんなことを言われなければならないのだろうと思う。確かに頂いたアドバイスは効率的なのだが、なにかその中に僕が毛嫌いするような「正しいとされているもの」のようなこと/ものが内包されているような気がしてならない。大抵このようなことを言ってくる人間とその後仲が深まることがない。彼/彼女達とは全く別の場所にいるという確信の元、重いものを運ぶ度に非効率的な持ち方をするように心掛けている。僕は意地になっているのだ。

無意味な振舞い

最近芸人として金を稼ぐためには、「おもしろい状態を保つ」「おもしろいものを作り続ける」以外に、好かれる必要があるということに気が付き内心がっかりした。とは言っても「笑い」というのは「誰が言うか」にかかっていて、その点魅力的ではあるのだけど、ただ単に面白ければいいということ以外に必要な振舞いがあるということにストレスを感じてしまう。面白いネタを作り続けているだけで金が稼げるのであれば、不倫をしただけで芸人の収入が何故下がるのかを考えて欲しい。他人のプライベートな出来事を、世間が不祥事だと揶揄できる一方的な関係がそこにはある。

好感度が笑いに直結するのは当然のことで、例えば文化祭で友達が披露した漫才を面白いと感じる要因として、その友達のことが好きだから、信頼しているから、という部分が大きい。芸人は売れなくてはならないという考えを持っているので(売れていなくても素晴らしい芸人はたくさんいるし、そもそも「売れる」の定義があやふやではあるけども)当然好感度のことを意識するし、本来おもしろかったもの(ネタ)が、自分の振舞い(ネタとは関係のないところ)のせいでつまらないと思われてしまうのは癪なので、好かれるような態度を取ることになる。一貫して無難な態度を取ればいいというだけの話だ。今のバイト先でしていることと何も変わらないところにがっかりしたのである。それでもやるけれども。
ちなみにテレビを見ている人は、タレントや芸人の振舞いを一瞬で見抜く。あれは何故なのだろう、不思議だ。テレビを見ていて、嫌な感じがするなあと直感した人は数年後必ず見なくなっている。その点信じている。常に訪れるごく個人的な選択肢に正しくあろうと思う。

おもしろくない文章について

「命は何よりも大切だ。」という文字の羅列を読んで、胸を打たれる人間がいないのは、この表現が模範解答的だと感じるからだと最近思う。バイト先の本社で毎月「社内報」が発行されている。前に勤めていた銀行でも似たようなものがあった記憶がある。中身は社員の日記や経験談等々個人的なものがテーマになっている。なっているのにも関わらずそこには「命は何よりも大切だ」的なことが書いてあって、大抵読むに値しない。こういった連中の書く文章がつまらない理由は文字を書いている最中にも「社会人としての振舞い」がつきまとっているからである。「命は何よりも大切だ。」という文章が響かない理由と同じだと思う。
先日、社内報の中に知り合いの料理人が書いた日記が載っていて、内容としてはコロナ渦の中暇だったのでクッキングスタジオに通ったというものだったのだが、それは他の会社の人間達が書いた模範解答的な文章とは違って、ごく個人的なエピソードであり、純粋にあ~いいなあと思った。そういった文章は振舞いに命を懸けている人達にも刺さるらしく(当然のこと)、珍しく社長が「時間を有効に使っていて素晴らしい」と絶賛したのだが、あまりにも残念な講評だなと落胆した。料理人の生活を社会的な尺度で図り、それを内部(社会)へと収束した上での言語でしか物を言えないというのは悲しいことだ。舐めやがってと思う。
以前勤めていた銀行で営業部長に「お前は自分がどうとかそうゆうことばかりを考えているけど、周りにどう思われているかをもっと気にしろ。」と言われたことがある。学生気分を辞めろと何度も言われたが、社会人としての行動、社会人らしい発言以外を「学生気分」と称してしてしまうような人間が何を書いても無駄でしかない。
文字を書くという行為と社会的な振舞い(TPOへの配慮・周囲)というのは実に相性の悪い(情報を書く場合には相性がよい)ものだと思う。嘘がすぐにバレる。欲をかいて社内報に読み応えを欲しがった結果、安易な発想で日記を書くよう社員に求めながらも会社では「社会人として」なんてことを平然と言う訳だからよく分からない。よく分からないのである。

自覚的な態度

コラムの期限が迫ると、というかこのコラムは15日と月末に公開される訳なので、自然と書きたいことを日々探しながら生活をする訳だが、最近書くことが全くない。書くことがないと感じるのは書き手の問題であるし、そもそもコラムのおもしろさはできごとの大小によらない。できごとのスケールが小さければ小さいほど書き手の目線が映える訳で、かくいう僕もこのコラムを書くようになってから「できるだけ小さなスケールを題材にして書く」ということをなんとなくテーマにしていた訳なのだが、僕が「書くことがない」と思うのはそれとは全く別のところにある。
話は戻って例えば「命は何よりも大切だ。」ということを人に伝えるための文章を書く場合、「命は何よりも大切だ」と思えるような具体的なエピソードを書いたり、テクニック(比喩表現だったりエピソードの構成だったり)を駆使する必要がでてくる。これらのことに僕は最近うんざりしているのである。エピソードを書くにしてもそこにはなにかしらの省略が存在している訳で(徹頭徹尾できごとの全てを書けばよいという問題ではない)、その切り取り方によっては胡散臭いものが出来上がったりすることがある。
例えば社内報に料理人が書いた「クッキングスタジオに通っている話」に僕が反応したのは、それがごく自然なものだったからで、僕が料理人で彼と同じ体験をしてそれをこのコラムに書くといった場合、あのようなものにならない。恐らくもっと読みやすいだろうし、クッキングスタジオの先生との何気ないやりとりを何気なく書かず強調したりすると思う。
クッキングスタジオで先生と何気ない会話をしている最中に「何気ない会話をしているな。コラムに書こう」などと僕はその場で不自然なことを思考し、家に帰りパソコンを開いて、何気ないことを何気なくないように強調し、ありとあらゆる比喩表現を駆使しながらその日のことを書くのだろうけども、完成したものは嘘八百でしかない。それは確実に読み手に伝わるし、自分でも分かる。
お笑い芸人は同じネタを何度も繰り返し人前で披露する。繰り返していくとツッコミがどんどん早くなるのは、不自然であったはずの「ボケ」がツッコミの人間にとって自然なもの(ネタを披露している段階でボケを知っているので当然のことである)となっているからである。文章は無自覚を「装うこと」を受け取る側に前提とされていない。
僕はこれまで散々このコラム内であやゆるモノの見方を書いてきた自覚がある。それは一々停滞するということでもある。
バイト先から歩いて帰っている最中、ふと見上げたときの夕日が素晴らしかったのに、その美しさを描写するために足を止めて観察してしまっては、僕に書かれた夕日は僕が帰り道に見たあの夕日とは全く別のものになってしまう。

最近は停滞を自身に許さないようにしている。そのため書きたいことが見つからないのである。それは変化しているということで、悪いことではないし、そのような生き方をしてきてしまった(つまらないモノの見方)をしてきた分のお釣りのようなものだとも思っている。

「バイト先から歩いて帰っている最中、ふと見上げたときの夕日が素晴らしかった」でよいはずだ。それが伝わるかどうかは、日々の僕自身の生き方にかかっていると最近は思う。

PROFILE

「お笑い芸人になりたい」と思い、新卒2ヶ月で勤めていた銀行を退社。
プールサイドというコンビ名で活動中。
毎週日曜21時からインターネットラジオ「プールサイドの25Mラジオ」を生放送中。趣味はラジオ投稿。
現在はコンビニでバイトをしながら。日々の生活を楽しんでいる。

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