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落合のダッチワイフ JUN 30,2021

Hey!凡な日々
Vol.50 父が遺書をWordで書いた理由


父親は僕が小学生低学年の頃に自殺をしている。その理由は未だ不明だが金銭的な問題だったのではないかと思う。
幼い頃父親に抱かれている時、手首に輪ゴムの痕のようなものがあったのを一昨年思い出した。車の運転席で抱かれている自分が父親の手首についた痕を見て、それを指先でなぞっている映像が頭の中で浮かぶ。映像を思い出したのは、父親が自殺未遂をしたことがあるという話を母から聞いたのがきっかけだ。あれは輪ゴムの痕ではなかったのだとその時に分かった。

父は子供思いで、毎週お出かけに連れて行ってくれるような優しい男だった。ただ一つ金銭回りがてんでダメだったと聞く。
とある日母親の財布からクレジットカードを抜き勝手に使ったことがあるらしい。それも父親が死んでから知った話だ。自分が当時幼くて本当によかったと思う。27歳の僕がそれを見ていたら、父をどうしていたか分からない。
借金をしていたらしく、周囲の人間が手助けし何度完済しても、また借金を作ってきてしまっていたらしい。生活する金が無いから借金した訳ではないのが怖い。
そんな彼を見ていた大人たちは、死後「彼は病気(精神的な?)だった。」と口々に言っていたが、僕はそれを受け入れる気には全くならない。きっと病気ではなかったはずだし、病気だったとしても知識と根性があればそれを乗り越えられたはずなのである。後は家族を思えば簡単な話だったと思う。

僕は様々な種類の強迫観念を持っていて、一時期それが生活の支障をきたすレベルにまで達したことがある。現実と妄想の世界が曖昧になってしまったのだ。このままではいけないと思い、自分と似た症状が書いてある本を片っ端から読んで、数年前に割とコントロールできるようになった。今ではネタを書く際、強迫観念を思い起こすときに使用されるであろう脳味噌の一部分を自ら刺激することによって、妄想が膨らみやすい状態を作ったりと使い分けができている。とは言っても、時に生活の邪魔になることはあるけれども、それが何故起きているのか知っているのですぐにおさめることができる。

僕は部屋の片付けが苦手だが、できない訳ではない。人より片付けに努力がいるというだけだ。勿論そんなことでは解決しない病気も世の中にはたくさんあるけども、父親の金の使い方がなんらかの病気に値するのであれば、それは父のメンタルが貧弱だったからだと僕は思いたい。でなければ、彼を許してしまいそうになる。

ただこれだけはなにが起きたとしても許せないということが一つある。それは母親のクレジットカードを勝手に抜いたことでも、誠に身勝手な理由で自殺したことでも、その後僕と母を地獄に突き落とし続けているということでもない。遺書が手書きではなくWordだったということである。
僕は実際に父が書いた遺書を一瞬しか見たことがない。いずれ大きくなったらね、と母に言われたが、今さらあの時のことをぶり返す気にもなれず、27歳になった今でも読むことはできていない。ただ一瞬見た時のことは覚えている。確実にWordで制作していたのである。その後母親から「手書きではなかった。」ということだけは聞けたので間違いない。
やはり彼は何かしらの病気なのだろうか。一世一代の遺書を自分の手で書かないなんてのは常軌を逸している行為だと考えられる。遺書の最後の文章は「愛している。」という家族への熱いメッセージあったと前に母から聞いたが、それをWordで打つってのは一体どういった了見なのだろうか。疑問しか浮かばない。

僕が家族を置いて自殺することを決意した時、そして自殺する理由が自業自得でしかなかった場合、絶対に遺書をWordでなんて書いたりしない。Microsoft Officeの力なんて不要なのである。
ではどうして父は遺書をWordで書いたのか。その理由を少し真面目に考えてみたところ、実は手書きで何回かは書いてみたのではないかという説が浮かんだ。以下にまとめる。

1. 誤字脱字
恐らく遺書を書いている時ってのは、大分エモーショナルな状態になっていると思われる。自分がこの世からいなくなるという決意、家族と二度と会えないという寂しさ、それを知っているのは今この世で自分だけだという孤独感、その全てと向き合いながら一文字一文字を綴っていくのである。状態としてはかなりよい文章を書けそうではある。
世界で一番大切な人へ向けた、愛と懺悔を命懸けで込めた手紙を書く場合、単純に誤字脱字は許されない。恰好がつかないし、自分がいなくなった後に「誠意がねえよ。」と思われてしまってはかなわないのである。誤字脱字のある履歴書を会社に送らないのと全く同じ理由である。そして遺書を鉛筆書きしない方がいい感じがする理由も履歴書と同じなのである。感情的になりながらボールペン一発書きというのは、誤字脱字の発生率が非常に高まっている状態と言える。そして誤字にその場で気が付いた時、また遺書を一から書かなければならない。その時にもうすでに完成してあるところまでの文章を、新たな一枚目に書き写す気に人間なるだろうか?そんなことを遺書でしていいのだろうか?これは履歴書ではないんだぞ。となり、また先程書いた途中までの文章と違う感じの文章を書き始めることになる。がしかし、やっぱりどうしてもさっきの文章の方が感覚的に優れているような気がしてならない。というかさっきの文章と違う感じにするということは、さっきの文章が優れたものだった場合、優れているところ以外を書くことになるのではないか。とか色々考えている内にエモーショナルな気分はとうに無くなってしまっていて、また明日書くか~なんつって横になっている内に自殺決行日の前日とかになってしまい、急いでWordに書き込み始めたのではないかと僕は考えたのである。

2. 読み手のことを考え過ぎたから
遺書というのはハードルが高い。そいつが全身全霊で書いたものだと皆が勝手に思っているからである。なので書き手は自ずと、自分が持っている全ての技術を駆使して遺書を完成させなければならない。がしかしそこで問題が起きる。きっと父もこれから僕が述べる壁にぶつかったに違いない。

遺書を書く時、念頭に置いておかなければならないのはやはり読み手のことである。僕だったらできれば泣かせたいとかそういったことまで思うに違いない。遺書に関わらず人間何かを作る時、自然と受け手のことを考えてしまうもので、それでいてよく思われたいと考えるのは当然のことである。しかしこれがまずい。例えば家族に伝わりやすいようにと推敲を重ね、エピソードの差し替えだったり、とある部分をごっそり削ったり、と過不足なく文章を整えた場合、確かに読みやすい遺書にはなるのだけども、その反面もの凄く技術めいた、つまりは理性的な遺書になりかねないのである。理性的な遺書程冷めるものはない。そこには客観視された目線があるからである。先程も述べたが、遺書とは世界で一番大切な人へ向けた、愛と懺悔を命懸けで込めた手紙のことである。これが理性的ではいけない。遺書は作品ではない。感情的になり過ぎて、少し矛盾があったり後半に向けて支離滅裂になっていったりした方が、読み手が感動したりすることすらあるのだ。無意識の蕩揺をこちらは見たいのである。
ましてや父はプロではない訳だから、素直に書くのが結局のところ一番いいのである。
がしかしプロではないからこそ、彼はそこに気が付かなかったのかもしれない。一世一代の文章がこんなものでいいのか?もっと上手いこと書けたのではないか?と文章をこねくり回している内に、Wordでいこう!!と決断したのかもしれない。Wordであればコピー&ペーストでどこでも簡単にギリギリまで差し替えることができるし、何よりも全体を見通しやすくなる。そして何よりも読み手が見やすい。内容に自信がなかった父はせめて見やすさとかそういった外側の部分で攻めて見たのかもしれない。

このように色々考えられる訳だが、考えている内にどんどん疑問が膨らんでくる。ファイル名は何で保存したのかとか、pdfに変換したのかとか、USBにコピーしている時何を思ったのかとか、印刷機から流れてくるホカホカの遺書を見て彼がどういう気分だったのかとか。
遺書を通して彼が意外と冷静だったことに僕は若干の恐怖を覚えたのである。

PROFILE

「お笑い芸人になりたい」と思い、新卒2ヶ月で勤めていた銀行を退社。
プールサイドというコンビ名で活動中。
毎週日曜21時からインターネットラジオ「プールサイドの25Mラジオ」を生放送中。趣味はラジオ投稿。
現在はコンビニでバイトをしながら。日々の生活を楽しんでいる。

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