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落合のダッチワイフ NOV 15,2021

Hey!凡な日々Vol.59
ここ最近の俺の気分について


消さないデジタルタトゥー

数年前に昔から髪を切ってもらっている美容師さんに「とてつもないスピードで価値観が変わっている」という話をしたら、「急いで色んなものを作った方がいい。今しか作れないから。」と言われたことを思い出した。その時の意味が最近やっと分かってきた。

デジタルタトゥ―という言葉がある。これはネット上に残された消えない文字の羅列という意味だったような気がする。多くの芸能人が過去に刻んだものを今になって掘り起こされ仕事を失っている。自分はどうか考えてみる。正直手遅れな部分が結構ある。
学生時代にどっかのラジオで読まれた僕のネタを、ツイートしているアカウントがある(とあるラジオのコーナーのbot。僕が作ったネタだけがツイートされている訳ではない)。たまにエゴサーチをすると今でも目にすることがある。内容は人の見た目を揶揄したようなもので、今の僕が見るとなにがおもしろいのか分からないし、不快な気分にすらなるが、当時はそれが笑えていたという事実がそこにはある。採用された訳だから、僕以外にもそれをおもしろいと思った人間がいたのであろう。
このネタがいつか大勢の目にさらされた時、僕は一瞬にして仕事(職業にもよるが)を失う可能性がある。過去の行為や言動の方が説得力を持っているのはなぜなのだろうか。分からない。僕の本質的な部分は現在進行形で変容している。
その変形していく過程を見せるためにも、今こうしてデジタルタトゥーを掘っている。
別にネガティブな意味でだけ使われる言葉でもないだろうと思う。

ネタの善し悪しは別として、「人の見た目を題材としたボケ」を二度と僕は書けないし書かない。理由は単純で自分が今おもしろいと思うこと以外は作る気にならないからだ。なにをおもしろいと思うかは、普段の生き方の中で決まる。価値観の変遷と共に作るものの内容が変わっていくのは当然のことだ。

父親の自殺を笑う今の自分についての記述

幼い頃に父親が自殺をした。僕は散々それに纏わることをおもしろおかしく書いてきたし、それで笑いをとることに強くこだわっている。俗にいう「人を傷つけない笑い」とは相反しているようにも思える。これはかなり難しい。考え方は、過去や今現在自分が置かれている環境によってそれぞれ変わってくると思う。
自分の父親が自殺をしたと知った日の夜、母の友人が家にきていた。リビングのテーブルに二人は向かい合って座り、母のすすり泣く声だけが聞こえていた。僕は二人を背中にソファーで寝転んでいて、テレビから流れる水10を眺めていた。ゴリさんと宮迫さんがコントをしていたような記憶がある。僕はそれを見て大笑いした。そして「ママ!見て!おもしろいよ!」とあまりにも場違いな発言をしたのを覚えている。八歳なりの「自分は大丈夫だよ」という母親への気遣いだったのだと思う。そして僕はあの時に「笑えた」ということに、二十年後の今になっても突き動かされている。云わば原体験のようなものなのかもしれない。
僕はそれから辛いことがある度にバラエティー番組やコントを見るようになって、お笑いを現実逃避するための手段とした。どんなにしんどいことも笑いに変えてしまえばいいし、変えられるに違いない、という信念のようなものを持って学生時代を過ごしてきた。
僕のお笑いの出発点は「不幸を笑いにかえる」ということになる。だから僕は今でも父親の自殺を笑う。
「身内の不幸を笑いに変えるのはどうかと思います。」と言われても、僕は今後も一切譲らないし、お前に言われる筋合いはないと心から思う。この考えが変わったときはすぐにこのコラムに書こうと思う。

僕は事務所に所属していないのでアマチュア芸人という扱いになる。だからこれまで自分をほぼほぼ素人だと思っていた。
でも今年キングオブコントやM-1の一回戦を突破し、多くの人が芸人として見てくれたような気がする。肩書きはなんだっていいのだけど、本当にそれは嬉しかった。認められると最高な気分になっちゃう(お笑いにプロもアマチュアもないと思っている)。
自分が少しでもあの憧れていた芸人さん達に近づけたと思うと、なにかしらの自覚が生まれてくる。
僕はお笑いを手段として現実逃避することを辞めて、「人から笑いをとること」を目的とする人生を歩むことにした。
そう考えるとなんかこう僕はもっと変わらなければいけない部分もあるのかなと思う。それがなんだかは考え中なんだけども、なんか自分のTwitterとか俯瞰して見ていると、売れない芸人のツイートしてんな、とは思う。

顕微鏡で拡大するようなこと

昔、芸人の誰かが「結婚式をおかしいと思っていないと、そもそも結婚式のネタなんて作れない」と言っていた記憶がある。
僕は学生時代「偏見ネタ」をかなり得意としていた。ものの考え方大喜利みたいなことなのだけれども、最近これをやりたくないと思うようになっている。
例えばさっきの結婚式の話で言えば、心から「おかしい」と思っていればいいのだが、そう思えなかった場合に書く「結婚式ネタ」は恐らく誰が見てもおもしろくない仕上がりとなる。
それは誰も共感しないからだ。
当時は対象の題材を顕微鏡で覗くようにしながら、偏見ネタをたくさん作っていた。つまり誰も気がつかないような些細なことを見やすくするために、倍率をガンガンに上げて拡大し、そこに切り込んでいくというやり方だったと思う。
テレビに出ている芸人が「偏見」や「卑屈な視点」といった心の闇を、上手に笑いに変えているのを多く見かけた。当時大学生だった僕はそれに直撃してしまって、より卑屈になろうとしたし、無理のある偏見を持って乱暴な理屈をこねたりしていたけど、段々とそれができなくなっていった。そして不思議とテレビでも「陰」をテーマとした番組をめっきり見かけなくなった気がする。今は誰もそんな気分じゃないのかもしれない。
最近は「ほっとくからほっとけよ」みたいなことを思う。心の底からおかしいなと思うことに対しては容赦なくいくけど、そうじゃない限りは関わる気が起きない。
自分の中で決めていた自分だけの規律が、どんどん緩くなってきている気がして少し不安を覚える。ただ単に疲れちゃって、「なんでもいい人」になってしまっているのではないかと思い、試しにめちゃくちゃ怒りまくる一週間とかあるのだけどしっくりこない。
「嫌いなものがない、なんでもいい人」になったらおしまいだからそこだけは気を付けたい。口に出すか出さないかは別として。
「ゆるくやりま~~す」みたいなの苦手なんだけど、いい感じに脱力はしたいなと思っている。

PROFILE

「お笑い芸人になりたい」と思い、新卒2ヶ月で勤めていた銀行を退社。
プールサイドというコンビ名で活動中。
毎週日曜21時からインターネットラジオ「プールサイドの25Mラジオ」を生放送中。趣味はラジオ投稿。
現在はコンビニでバイトをしながら。日々の生活を楽しんでいる。

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