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落合のダッチワイフ FEB 15,2020

Hey!凡な日々 Vol.27
〜自己中心的でなにが悪い〜


自分の怒号で目覚める日々

僕はここ数年間、人に怒らないように心掛けてきた。学生時代は人を許すことより許さないことの方が多かったと思う。
皆さんは怒ってる自分を俯瞰で見たことがあるだろうか。僕の頭上、右斜め上には常に自分を見ている僕がいる。怒っている自分を空中から眺めるとそこには猿がいる。「怒る」という行為は1番簡単だ。本能に任せればいいだけ。
がしかし、僕達は人間であり「理性」がある。僕は猿ではない。理性に任せようと、数年前に決めた。
それからは人に怒らなくなった。人を許せるようになった。一見訳の分からない、彼/彼女達の行動や言動にも、目を凝らせばそこには、奴等なりの正義があることが分かった。寄り添い文脈を理解することが出来れば、怒るに値しないことも分かった。

僕は怒らない人を舐める傾向にある。何故この先輩にはにタメ口で、何故この先輩には敬語なのか、一度整理してみたことがある。タメ口ゾーンに連なった先輩達は皆、僕にとって怖くない人達だった。
僕の理性的な部分を意識的にか、無意識的にか、利用してくる人間が周囲に増えたように思える。「彼は私達の正義を理解してくれる。」とあぐらをかかれている。
いつからか僕は人に「舐められる」ことを自ら進んで行うようになっていた。初対面の人にも、会っていきなり自分の全てを開示してしまう。仰向けになり腹を見せ、精神的な降伏を見せることでしか、人とコミュニケーションを取ることが出来ない。

人を許す日々は、非常に楽だった。自尊心を代償に自らのアンテナをへし折ればよいだけだ。
先日バイト先の仲のよいお客さんに「元気ないじゃん?」と言われ、「う〜ん。」と答えると、「元気だしなよ!」という返事が返ってきた。

なんでだよ。

と思った。咄嗟に思った。僕は確かに腹が立った。
「元気がないなら、元気を出しなよ。」
こんなことをわざわざ口にしなくてよい。寧ろ口にしない方がよいくらいだ。これをコミュニケーションと呼べるだろうか。舐めんなよと思った。

その日の夜から、自分の怒号で目が覚めるようになって現在に至る。
唇の上にデキモノが3つ出来た。僕は嘘をついていると、最近になって分かった。
理性とは本能に対する、嘘なのだろうか。
僕は優しいのではない。すぐに怒り狂う。それが表に出ないよう、必死で相手の訳の分からない言動や行動に意味付けをする。
今の僕だと、通りすがりの人間に突然殴られたって、「事情がある。」と納得してしまいそうだ。現に、これまで何度殴られてきたことか。物理的にでなくとも、ああ、これは心が殴られていると感じたことは山程あった。
僕は我慢の限界を感じた。怒号がアラームの役割を果たすようになってしまっている。早く終わらせなければならない。

先日、僕の心に土足で踏み込んできた人物がいた。
「うるせぇ!黙れ!」と大きな声をあげてみた。大きな声をあげようと決めてから、大きな声で相手を罵ってみた。
帰り道、我慢していた時よりも不快な気持ちになった。
何も言えない人と優しい人の違いは何だ。
僕は「怒る」「怒らない」を選択することが出来る。怒ろうと決めて怒るのは中々難しい。だが、確かに怒らなくてはならない瞬間もある。過去に何度もあった。それを見逃すことを優しさとは言えない。
明朗快活という言葉を知っているだろうか。簡単に言うと、悩まず明るい性格。を指す。僕が使っている意味での「馬鹿」と同義だ。
「明朗」とは心にこだわりがないことを意味するらしい。僕がこの数年間やってきたことはまさにこれだ。自分のアンテナを折るというのは、こだわりを一つ一つ潰していくことに他ならない。それは僕が僕である必要がないということを意味している。そんなのは御免である。
今年は正しく怒ります。

人を傷つけない笑い

話が変わっているのか、変わっていないのかは不明。ただこの流れで書きたいことがある。最近、「人を傷つけない笑い」という言葉をよく目にする。モヤモヤする。なんだかとてもモヤモヤする。

僕の父親は自殺をしている。父の死を面白おかしく話すと、笑う人と笑わない人がいる。「人の死を笑いにするな」という声が今にも聞こえてきそうだが、余計なお世話だ。想像力が足りない。
笑わないとやっていけなかったのだ。父親の死は、我々落合家を地獄に落とした。一種の呪いのようなもので、その呪いは今もなお続いている。僕と母親は様々な代償を支払った。親父のケツを拭いた。実家も支払った。お釣りを求めて何が悪い。
笑えないことすら笑えることに僕は惹かれた。そうゆう所から僕は出発している。だから「人を傷つけない笑い」というあまりにも清廉潔白な言葉に若干のモヤモヤを感じるのだろう。
がしかし、父親の死で笑いを取ると言っても、「自殺している人間」を笑うことはない。
笑えない。日々歳を重ねるにつれ、笑えないことが増えている。数年間、「怒らない人間」の物真似をしてよかったのはその点にある。
もう僕は他人を馬鹿にすることは出来ない。この感覚は合っている。間違いがないと思う。
100人の客がいて、99人が笑って、1人が泣いていたとしたら、数年前の僕だと大成功と感じるだろうが、今ではそうは思えない。
風呂に入ると、虚しくなる時がある。トイレに座っていると、叫びたくなる時がある。誰にでもあるだろう。その理由が僕になって欲しくない。責任を持てない。
僕以外の人間にも時間が流れていることを忘れている時がある。自分が阿保かと思う。
僕は誰も傷つけない笑いを目指す。それと同時に人を傷つけてしまう覚悟をした。
人を傷つけなくては成立しない笑いがあるなら教えて欲しい。

多様性

話を戻そう。
「人を傷つけない笑い」と最近よく言われている漫才を見た。その漫才を見た多くの人の感想の中に多様性という言葉を見た。
こうゆう人達が、私の理性的な部分やいわゆる「落合君、優しい〜。」にあぐらをかくのだろうなと思った。
この漫才の面白い所は、「普通怒る所で、怒らない。」点にある。と思う。僕はそこで笑った。めちゃくちゃシンプルな話だ。ツッコむべき所でツッコまない。
例えば、ケツをいきなり蹴られても、「何してんだよ!」とはならない。むしろ相手を受け入れる。
これと「多様性」がどう関係しているのだろう。僕にはさっぱり分からない。
ネタと現実を混同してはいけない。だがここでは、ネタと現実を混同して書くことにする。
漫才中、ボケを「許せる」彼は、なんだってよい人に見えた。ツッコミとは違和感への反応だ。彼にはそれがなかった。心にこだわりのない人間である。明朗快活とはまさにネタ中の彼を指す。
ケツを蹴り上げられてもなお「許す」人間を見て、「多様」を感じるのは危険だ。
全てを許すことは多様でも何でもない。知ることと受け入れることは別だと思う。
否定しないことが素晴らしいとされている最近のムードに腹が立つ。好き嫌いがない人間の好みはアテにならない。個人の輪郭が見えない。受け入れられないものは、受け入れられなくてよい。無理をして理解する必要はない。ただ知ればいい。知った上で、相容れなかった場合は口を閉ざせばよい。散らかっているように見える他人の部屋も、当人にとっては実は整理されていたりする。他人を自分好みに整理してはならない。そこには文脈がある。
僕の考えが「間違っている!」と指摘したくて堪らない人は、その多様性とやらで是非僕を受け入れてほしい。僕は間違っていないと思っている。

俺、俺、俺

去年から今まで僕はこのコラムで自分の手が届く範囲内のことを書くように努めたつもりでいる。がしかし、今回は少し背伸びをしたかもしれない。僕は焦っている。別に世間なんてどうだってよいし、僕には全く関係がない。構っている暇がない。面識のない芸能人の不倫で怒り狂える人は、余程暇なのか。家の外で鳴る救急車のサイレンの音を聞いて、毎度悲しみに明け暮れくれる暇があるというのは贅沢なことだと思う。
物申すつもりもないし、独り言でもない。ただ叫びたくなったから叫んだ。
だから書いていてあまり気分がよいコラムではなかったが、たまにはこうゆうのもアリだとしたい。書きたいことは書かなくてはならない。
最近、人を傷つける覚悟をした。厳密には傷つけてしまうかもしれない覚悟だ。それと同時に、人はそこまで弱くないと信頼することにもした。
今年は自己中心的でいたい。

PROFILE

「お笑い芸人になりたい」と思い、新卒2ヶ月で勤めていた銀行を退社。
プールサイドというコンビ名で活動中。
毎週日曜21時からインターネットラジオ「プールサイドの25Mラジオ」を生放送中。趣味はラジオ投稿。
現在はコンビニでバイトをしながら。日々の生活を楽しんでいる。

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