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吉本 悠佑 NOV 29,2019

麺がつなぐ。人と人。(イケ麺バーの原点)


こんにちは、ヨシモトです。僕が主宰する「ポップアップイケ麺バー」について、前回は「世界は作ったもん勝ち~ポップアップの可能性~」と題し手法としての「ポップアップ」にフォーカスした話をしましたが、今回はもっとアナログにズバリ『麺の世界』にフォーカスした話をしたいと思います。あんま職人っぽい話するのは好きじゃないので、ある意味で貴重かも?(笑)

割烹屋での修行

僕は大阪の辻調(辻調理師専門学校)を30歳で卒業してから、京都の割烹屋に入った。最初は全てが初めての経験の連続でしんどかったけど『一日ひとつでも学んだら一年後には365の事が出来ている筈・・・!』という情熱だけでひた走った。そして楽しかった。夜は3時・4時まで働いて、朝は10時からまた店に立っていた。4時間睡眠なんて当たり前で「今日は6時間“も”寝れる・・・!」という生活をしていた。毎日、気絶するように寝ていたが、毎日がブランニューで朝はスッキリと起きていた。(ここが実はサラリーマン時代とは全然違う)
僕が修行していた店は会席を提供する京料理をベースとしたれっきとした割烹屋なので、前菜の細かいものから、お椀やお造り、メイン、酢の物から御飯物から甘味まで、あらゆるものに触れることができた。特に外国人の友人からは「君のスペシャリテ(専門)は何?」と言われても、割烹屋は本当になんでもやるので「Everything!」と答えていた。厳密には「Kaiseki」そのものがスペシャリテなのだが、それを理解してくれる外国人は少ない印象。そんな「会席」とは季節や、器や、掻敷や、歴史、文化など、日本のeverythingが詰まっているなぁと、日本料理の中でもとんでもない世界に世界に足を突っ込んでしまったな、というのが第一印象だった。

「誰かを幸せにできているか?」

僕は「人はどこまでもモチベーションの生き物である」と思っている。特に人との関わりにおいて、それはとてつもなく大きい。
でも僕は幸い、料理の世界に飛び込んでから自分のモチベーションの“上ル下ル”があっても「あー、こんな世界入らなきゃよかった」とか「本当にこの世界でいいのか?(僕が提供しているものは世界に必要とされているのか?)」などの不安や悲愴に陥ったことは一度もない。それは我ながらとても素晴らしいことだと思っている。
営業の時は「本当にこの仕事を通じて誰かを幸せにできているか?」と不安になる時もあったけど、料理の世界に入ってからそれがない。『美味しいもん作って、楽しい場所を作ってさえいれば、喜んでもらえることはあっても、誰にも妬まれる筋合いはない』と今でも信じているし、もし妬まれたとしたらそれはタチの悪い嫉妬であって取るに足らない。
僕が割烹屋で働き始めた頃、営業時代の同僚や昔の友人がおそるおそる僕の働く店に来てくれて、一同に皆驚いていた。後で聞いたら、飲食業なんて激務薄給(+3K)であって、きっと目の下にクマができてヘトヘトになって働いているだろうと想像していたらしいが、久々にあった僕はなんとまぁ生き生きと働いていたらしく、「なんなん!?あんた、営業んときよりキラキラしてるわ!(笑)」なんて言われる始末。それが何より嬉しかった。自分は必死の最中にいるとわからないけど、人にそう映っているのであれば、きっとそれが答えなんだろうな、と。
僕がスーツから割烹着に着替え、心配してくれながらもいつでも見守ってくれる昔の同僚には本当に感謝している。そしてこんな奇天烈人材を勇気をもって採用してくれた過去の会社様にも感謝している。「僕は今、料理人になりましたが元気にやってます」と当時迷惑かけまくった上司にただただ言いたい。(笑)

麺との出会い

最初は業務命令だった。「“五島うどん”とやらが流行っているらしいから、長崎の五島列島まで行って習得してこい」と言われ、五島列島に島流しをくらった。(笑)とはいえ、島にコネも何もないところからの五島列島行き(ぼっち)。
インターネットで饂飩教室をやっている人を探し出し、「初めまして」のところからアポイントを取り、事情を伝え現地へ向かった。(こういうリサーチ→アポ取りの能力は営業経験が活きたなと思っている)
そこで出会った僕の『饂飩師匠』(女性)がとても熱心な方で、島ではどんどん製麺の機械化が進む中で、昔ながらの100%手作業での手延べうどんの作り方をイチから教えてくれた。本来は“体験教室”なので2時間程度のプログラムで、全工程の中からごく一部のみを体験して終わるものなのだが、僕が「全て教えて欲しい」と言ったら『朝6時から仕込みをしてるから来てもらえたらお教えしますよ』と丁寧に伝えてくれ、僕は見知らぬ島で朝5時から慣れないレンタカーを借り、夜明け前の道を照らした。
わずか三泊四日の旅だったが、僕は中二日間を朝から晩までそのうどん師匠の横にいた。朝明るくなるとうどん小屋に光が差す。帰るころには西向きの海岸線に夕日が沈んでいた。暗い島の夜道を不安気に安宿へ帰る。でも、どこか心の興奮が止まらなかった。

うどんの才能の芽

※京都の店で作った手延べうどん。まっしろなカーテンがうまく干せた時はとてもとても満足する。

僕は京都に帰ってから悩み抜いた。まずうちの店は割烹屋であって饂飩屋ではないので“設備”がなかった。讃岐うどんのような『手打ち』うどんではなく、僕が学んだ五島うどんは『手延べ』うどんであって、本来は素麺と同じ製法(稲庭うどんも同じ)。うどんを捏ねた後に“延ばす工程”が肝であり、そのためには道具だけではなく、大々的な“製麺設備”が必要であった。素人が家で手軽に作れるようなものでは到底ない。昔々は各地の地主さんのような人だけが設備投資をし、あの細くて美しい麺を作り、食らえたようなものなのだ。(特に素麺は。)
僕は巻尺を持ってホームセンターに何度も足繁く通い、あらゆる資材の中で手延べうどんに最適なものを選び、そして自分で『手延べうどんキッド』をDIYで作り上げた。業者に発注すれば寸法通りのものが作れるだろうが、製作費10万円はくだらないだろう。僕はそれを3万円くらいで作り上げた。気付いたらその『うどんキッド』を使いこなせる人はもはや店に僕しかいなかった。だから毎日、麺を作った。
次第に、僕はうどんと会話をしだすようになった。

そばの郷にも行く

※十日町の山奥で蕎麦打ち。情景も含めて「ごちそう」ってこういうことなんだなと。

僕は麺のルーツを探る旅に味をしめ、次は新潟県・十日町に自費で飛んだ。魚沼の辺りである。五月ということもあり、夏に向けて『へぎそば』という海藻を生地に練り込んだ蕎麦を打ちたくなった。うわさによると海藻成分によって表面はつるりと冷たく清涼感のあるものらしい。初夏の香りが漂い出した魚沼地域はまさにキラキラしていた。雪解け水をたたえ始めた信濃川は田植えの繁忙期を迎えた十日町を雄大に流れ、来る秋の五穀豊作を早くも期待させてくれた。
ここでも勿論、僕は自分で『蕎麦師匠』を探し、アポを取り、電波の届かないような山奥で蕎麦打ちをしているらしいと聞く“おじぃ”のところへ一人で向かった。彼は引退間近の重い腰を上げて、僕に蕎麦を打ってくれた。
「高齢化」というものを言葉にするのは簡単だが、目の前でおいしい蕎麦を打てる人がまたひとりいなくなってゆく姿を見るのは、本当に心許なく思えて仕方なかった。同時に「伝承」という言葉の重みが響いた。

様々な場所で試される自分

※北海道幌加内町の蕎麦祭りで見つけた僕の蕎麦師匠。普段は福島県会津若松市で蕎麦打ちをしている。

この他にもいろんな場所へ行った。秋田・稲庭うどん。福井・越前そば。北海道・幌加内町(日本一の蕎麦粉の産地)。長野・信州そば。まだまだ行きたいところは数しれず。
しかしここでわかったことは、各地で製麺はどんどんオートメーション化されており(特にうどん)、「体験教室」は基本「体験」であって「あはは、楽しいね」で終わるだけであって、それはそれでもちろんいいが、僕が本気で教えて欲しいと嘆願して行くと、教えてくれる人の目が変わる。
『今となってはこんな手仕事をしている人はいねぇ。だけど、あんたが本気なら教えてやるよ』と。
僕も一瞬どきっとする。怖い。日本昔ばなしで雨宿りに駆け込んだ小屋のじぃさまやばぁさまが、最初は優しく話してきたのに、急に血相を変えて話をしだす転換シーンのように、各地の「師匠」は僕を試す。
僕がぐっと腹を据えて『本気です』と言うと「そうか」と静かに答えてくれる。そして彼らは大抵こう続けてくれる。『ここで教えられることは全て教えるが、そんな簡単なもんじゃねぇ。学びたかったらまた来な。そんときはもっと教えてやる』と。
一通りの手法を学んだ僕は一旦その場を後にするが、やはり悶々としたものが残ったときには場を改めてその地へ向かった。
僕の蕎麦師匠は会津にいる。北海道の蕎麦祭り(全国の蕎麦処が一同に集まるイベント。楽しいです!)に行ったときに見つけた方で、名刺をもらい、会津まで行って学ばせてくれた。後に知った事実ですが、僕が軽々しく「教えてください!」とい言った彼は、昔アマチュア蕎麦打ち大会で全国チャンピオンになったような方だったそうで、それを知った瞬間、背筋がゾクゾクした。

たかが麺。されど麺。

こうして僕はますます麺の世界に入っていった。キャリアが浅くても自分自身で“お師匠さん”を探し出し、現地へ出向き、直接教えてもらったという何事にも代えがたい経験を重ねてきた。
彼らはどんどん引退していっている。今も日本のどこかで小さな手仕事が消えていっているんだろう。

僕は思う。
35歳なんて「もうオッサンやん」とか言われて悔しいけど、世界が変わればまた『若手』に戻れるのである。
政治の世界を見て欲しい。50歳を超えてから油がのってくる。70や80になっても鎮座している重鎮もいる。35歳なんてまだまだ政治の世界では生まれたての『若手』。
ゲーセンに35歳がいたら煙たがられるだけかもしれないが、政治家で35歳がいれば『新星』などと言われ周囲からの目がガラリと変わる。
うどんやそばの世界なんて正直“おじぃ”ばっかりだ。そんなところに金髪のにいちゃんが「麺打たせてくれ!」と突如現れる。それが僕。
会津のお師匠さんとは一緒に銭湯にも行ったし、蕎麦打ちの帰りに若松の繁華街で飲み歩いた。聞いたら昨年にガンを患って入院していたそうだ。今はまた蕎麦打ちに復帰しているが、明日のことはわからんということを身に染みた経験だったと僕に語ってくれた。
僕はそんな彼から学んだ(今も学び続けている)ことを、自分だけのものじゃなく、世のために披露したいと思った。「自分のできることを社会に還元する」という綺麗事を実行するって、まさにこういう時なのかなと。

世界には風が吹く。その風によって消えそうになる灯もある。でもその灯がまた次のロウソクに繋がれば、この世界はこれからもずっと明るいのかも。だから彼らの想いも含めて静かに麺を打つ時間をこれからも大切にできたらなと思っています。

PROFILE

吉本 悠佑 POP-UPイケ麺バー主宰

京都在住『料理しない料理人』 Pop-Upイケ麺Barで自身手打ちの蕎麦や饂飩を出す、枝魯枝魯“若女将”、ライター業、金継ぎワークショップなどをマルチにこなす。旅した国は世界40か国近く。大学卒業後、大手人材会社、大手広告代理店での営業経験や、ドイツ在住経験も。gayデス。

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