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CULTURE TRIP JUN 12,2019

【400年と少し前から新しい、長崎】「世界さん、200年ほど鎖国します!(ただし長崎を除く)」

広い世界に対抗するために、日本が選んだ政策は「鎖国」だった。その期間、なんと200年ほど。だけど長崎だけは世界とつながる街として、その間唯一無二の存在になる。


鎖国の少し前からポルトガルと交代するように「オランダ」との交易がスタート。
オランダもまたいろんなものを日本に伝えてくれた。

何はともあれ、まずはそのうちの一つである、“長崎猫”とも呼ばれる尾曲がり(鍵しっぽ)猫さんに登場いただこう。

「私たちはもともと東南アジアにいたんだにゃーん。オランダの船にネズミ駆除のために乗せられてはるばる日本にきたんだにゃん。尻尾が鍵みたいに曲がっていたり、丸くて短い尻尾の子が多いだニャン」

とのこと。長崎市内にはこの尾曲がり猫が8割ほどをしめるのだとか。
長崎以外ではどちらかといえばあまり見かけない珍しい種類なので、今回インタビューなどの予定が入っていない時間のほとんどは猫探しに明け暮れた。

01.市内の魚屋さんにいた猫。ふくふくとした顔がたまらない。
02.グラバー園近くの坂道にいた猫。懐っこくてお腹まで見せてくれた。
03.唐人屋敷近くの猫。ベンチの上でお昼寝か。

と、もったいぶって言ってみたけれど、猫“探し”、するほどでもなく魚屋さんや階段、神社などあちこちから「ニャンですか」とばかりに顔を出してくれる。

街中にはこの長崎猫をキャラクターにしたものものも多かった。海のそばの街だけあって野良猫も多く、地域猫として可愛がられているからか懐っこい子も多くて…猫派としてはどうしても言いたい。

ありがとうオランダ!

世界さんしばらくさようなら。と、その前に

自由で、進歩的で、ワクワクするような時代はあっという間に終わり、日本は「鎖国」という道に突き進むことになる。

理由の一つとしては世界(スペイン・ポルトガルなど)の「領土拡大」に日本が巻き込まれないように、一つはキリスト教が広がることで民が政府のいうことを聞かなくなるのではという恐れ。他にもあるとは思うけれどこの二つが大きいと言われている。

ちなみにここ最近、「鎖国」という言葉自体に語弊があるのでは、と議論されることがあると耳にした。実際長崎を介すことで世界とのつながりを絶っていたわけではないので、どちらかというと「指定区域以外立ち入り禁止」に近いような気もする。ただその指定区域が狭くて、長崎のみだった、というイメージ。

さて少し話は変わるが、わたしが生まれたのは「天草」という島だ。

と、人に話すとけっこうな確率で「じゃあ長崎県出身なのね」と言われる(ちなみに天草は熊本県)。

確かに地理的には長崎に近いのもあるけれど、そう言われる理由の一つが鎖国の引き金の一つとなった「天草・島原の乱」の影響もあるのかもしれない(島原は長崎県)。言わずもがな、弾圧されたキリスト教信者や圧政に耐えかねた人々たちが起こした戦いである。

秀吉から突然の「やっぱりキリスト教、ダメ」宣言がなされて、キリスト教信者が多い長崎市民の多くは、この時に五島列島や天草諸島など近隣の島に移住したそうだ。その多くがのちの「隠れキリシタン」と呼ばれる人になる。

せめて離島などお役人の目の届きにくい場所で。そう願った彼らだけど、実は当時の日本はかなりシステマチックな行政が出来上がっていたせいで見逃してもらうこともできず、かなりの数の人々が弾圧される。

職業柄何か大きな歴史に触れたとき、わたしはそれを消化するために自分を含めた年代記に置き換えることがある。

少し想像してみる。長崎港にポルトガル人がやってきた1571年をベースに考えると、例えば祖父母や父母の時代に家族全員でキリスト教になり、自分の世代でそれが禁止になる。そして子供世代では隠れて信仰することすら許されない。これがわずか100年足らずの間の出来事なのだ。うんと長生きした人であればその全てを1代で経験することになる。

多分わけがわからないままに、そして信じるものを捨てきれずに悩みもがいただろうと想像に難くない。この辺りの時代の話は、映画化もされた遠藤周作「沈黙」を読むと悲しいほどにその気持ちを知ることができる。

天草にも隠れキリシタンは多く、祖父の書棚にはその悲劇的な歴史を扱った資料も多かった。子供の頃、何気なくその本を手に取り、そこに描かれた悲しい話に、のどか(すぎる)なこの島にそんな歴史があったのかと驚いた。とはいえ今となっては当時の政府の立場もわからなくもない。何せ「広い世界」を知ってしまった後にどうにかしてこの小さな島国を守っていかないといけなかったのだから。

長崎は“世界”と“日本”が最初にぶつかり合う場所である。

<たてまつる>の高浪さんが教えてくれたように、「異文化がぶつかったときの化学反応」は、建築物など素晴らしく良いものが生まれる一方で、こういうどちらかが消えそうになるという悲劇も起こる。

そんな時にどうすれば、どうなれば良いのか。自由で平和であるはずの後世の私たちにとって、それはずっと考えないといけない宿題だと思う。

ともあれ1641年、幕府は完全に鎖国を行う。
「鎖国するぞ!」と決めてからの幕府の動きは素早く、外国船の入港を長崎のみに制限し、翌年「出島」を作ります。
まずはポルトガル、続いてオランダの商館がここに入ることに。

1635 外国船の入港を長崎のみに限定
1636 出島完成
1641 鎖国

出島の中のアーバン

兎にも角にもこの時期から200年ほど、日本は「鎖国」、そして長崎は「日本で唯一の外国とつながる」街になる。
外国人が自由に歩いていたその前時代と違い、オランダ人は完全に「出島」の中だけの滞在しか許されなかったそうだ。

ちなみに出島は鎖国後にその役目を終え、堀は埋められ建物も消え、一度は街の中に同化してしまったそう。
それがなんと!

ジャーン! ほぼ当時そのままに再現されたのです。

今も入り口には見張り番風の人が立っていて、当時の風景を想像できる。

ちなみにこの時代、この中に日常的に入ることのできた日本人は基本的には役人さんのみ。あとは遊女さんと商人くらいか。

オランダからはコーヒーやチョコレートなどが初上陸したけれど、日本で初めてチョコを食べたのは出島に出入りしていた遊女さんだと言われている。

ではこの時代のアーバンンボーイとなりうるのは誰かというと、おそらく通詞(つうじ=通訳さん)だったと思われる。

ただ通訳するだけでなく、医学などもっと深く海外の文化に触れることができた人だ。

ぜひわたしも当時に生まれていたら通詞になりたい!と思ったけれど残念ながら当時の通詞はなんと相続制。該当する家柄に生まれなければ難しいとか。

江戸時代に外国語が話せて、外国の文化にも精通する。きっとわたしならドヤ顔で周りに見知ったことを吹聴して、そして上司に怒られる未来しか見えない。うん、なるほど家督制なのも納得だ。

さて、当時のオランダ人たちの住まいや生活はどんなものだったのか。
ちょっとお邪魔してみよう。

小さな街1個ぶんに満たないようなスペースに、和蘭折衷の建築物が並ぶ。
基本は和風ぽいけれど、グリーンに塗られた壁やガラス窓などがなんとも異国感を感じる。

出島で働き始めて2年目だという美来さん。他県出身だが出島が大好きで、本当に当時に住んでいたんじゃないか、と思うくらい生き生きとお話ししてくれました。感謝!

正直、最初はこの復元出島を「テーマパーク的なもの」だと思っていたけれど、実際に足を運ぶとその再現率に驚かされる。

今回案内してくれた現出島住人…じゃなかった、キュレーターのスターツ美来さんによると「きちんと資料があるもののみを、なるべく忠実に再現しました」とか。なるほど、だからこんなにもリアルなのか。当時の出島住人に見せてあげたいなあ、なんて思う。

さて、出島で最も目を引く建物はやはり「カピタン」=キャプテン=商船の船長が住む家だろう。中に入ると天井は高く、中は畳敷きなど和風の内装にシャンデリアや椅子、テーブルを組み合わせてある。なかなか豪華なお部屋。

壁は、唐紙という正方形の柄紙を貼り合わせて壁紙にしていた。畳にカラフルな壁紙が予想外に合っていて可愛い。

「壁だけじゃなくて天井まで貼っちゃうのがオランダぽいですよね」

確かに。日本にはなかなかないおしゃれな発想だ。

カピタンの部屋にある家具なども、なるべく当時のものに近くなるように19世紀初頭の食器や家具のアンティーク品を探して買い付けたりしたそう。だからその家具一つ一つ眺めるのも楽しい。

ある部屋には幕府からのいわゆる「貿易許可証」的なものが置いてあった。

「出島で商売をするのに、幕府に年間1億円くらい払っていたみたいです。それでも利益の出る交易だったみたいですよ」

なのでこの部屋で最も大切にされていたのがこの許可証だったとか。

ちなみに完全に埋め立てられた出島がここまで再現できたのは、基礎となった石の発見による。これでほぼ大きさがわかったのだとか。

出島に限らず、こういった基礎が発見されて再建された昔の建物は多い。

もし現代の何か重要な建物が壊されても、こうやって何かの証が残っていれば後世に再現されるかもしれない。
何も知らない人にとってはただの石でも、この石にはロマンが詰まっているのだ。

01.発掘された中には、貿易品であろう器などの品も出てきたそう。初期は銀や銅を輸出していた日本だけど後半は漆器やお茶、焼き物なども輸出したとか。
02.当時の(冬至という名前でごまかしたクリスマスなどの)ご馳走食卓風景。写真には写っていないけれど豚の口にトマトをくわえさせたものがどーんと飾られていた。
03.和風の内装に、高い天井とガラス窓と柄の壁紙。こういう異文化ミックスは楽しい。

「出島の中」という制限はあるけれど、牛やヤギを飼ったり本国から塩漬け肉を持ち込んだり、パン屋も市内に何軒か許された店があったそうで、衣食だけは本国流が可能だったとか。また当時のオランダ料理は割とシンプルなものが多かったそうでお醤油なんかも相性が良く、時々使っていたそうだ。

また彼らが持ち込んだ野菜がその後日本にも定着したりして、文化的にはポルトガル同様たくさんのものが日本にもたらされた。

<たてまつる>の“ビリヤードをするお奉行様”

とはいえ本国の船が来ない間はとにかく暇だったようで、ビリヤードやバトミントンなどの遊び道具も持ち込まれたそう。役人と遊ぶこともあったそうで、まさに<たてまつる>のお奉行様がビリヤードしている手ぬぐいの風景が繰り広げられていただろう。

そしてそんな当時のオランダ人たちの一番の悩みは「日本の夏の暑さと湿気」。建物に漆喰(長崎ではよく使われていたそう)を使って防水性をもたせたり、日本の蚊帳をベッドに貼ったりして工夫したそうだけど…その悩みは今現在もありますよ!とカピタンたちに教えてあげたらどんな顔をするやら。

カピタンの家の近くには通詞など役人が駐在する家もあったのだけど、そちらは完全日本家屋建築。カピタン部屋の天井の高さに圧倒された後は、なんだか和風の家の天井の低さにホッとしたのだった。

ちなみにこの時代、普通の長崎町人はどんな雰囲気だったかというと…。
もちろん昔のように気軽に異文化に触れることはできなくなったそうだ。でもやっぱり珍しいものには興味津々なのが人間というもの。オランダ船がくれば小舟で近くまで見に行ったり、出島に出入りしていた人たちを通してその時代なりに新しいものを見知ることはできた様子。
役人の家族であれば、お土産として持ち帰ったオランダの冬至(という名前でごまかした本当はクリスマスのお祝い)のご馳走を食べることができたり、荷物をこっそりくすねた(盗みは重罪だけど、落ちてたものを拾うのはまあまあ見逃されていたとか)工人たちもいたとかで全く情報が遮断されていたわけではなかったよう。
また出島滞在中のオランダ人たちも数年に1度江戸へ出ることがあり、その時は道中の村の人々はこぞって見学に行ったとか。トランプ大統領の国技館視察をスマホ片手に見学する現代人と変わらないなあ、なんて少し微笑ましい。

1823 シーボルト来日

ちなみに、この出島にいた人物でもっとも有名なのは医師として日本に来た「シーボルト」さんだろう。
日本人の妻子もおり(愛する妻の名をつけた、オタクサという紫陽花の話は有名だ)、医学や植物学など様々な最先端の学問を伝えてくれた彼は、出島の生活がどんなだったかなど詳細なレポートを出している(そしてそれが後々大切な資料となる)。

「シーボルトの日本報告」と言う彼がカピタンや本国宛に書いた文書の訳本を読んだけれど、ちょくちょく(現代風に意訳すると)「もー! 自由に研究したいのに見張りがいるー! うざーい! もっと自由に江戸に行かせろー」とこぼしていたのがおかしい。

出島には海に面した裏門と、街につながる表門があったとか。

現在も堀の上に橋が架けられているが、当時はこの1/6ほどの長さ(約4、5メートルほど)。思ったより距離が近い。この近さなら私が町人なら毎日のように中を覗きに行っただろう。

ちなみに現在の出島表門架橋は重要な史跡を傷つけないように出島側には基礎杭を打たず、テコの原理で片側のみで加重を支えているそうだ。

長崎の肝となる出島が現代でもいかに大切にされているか。この橋一つにもその気持ちが込められている。ちなみに今後、裏門側にも堀を作る予定だそうで、そうなればまさに当時の扇型の形がくっきりと蘇る。楽しみだ。

さて、今回知った長崎の歴史の中で、一つ好きになった逸話がある。

日本にとっては出島=オランダ国という扱いだったので、当時の出島にはオランダ国旗が飾られていたそう。
その後オランダは世界的な覇権争いに負けて、一時期「オランダ国自体無くなる」という目に合う。その時、世界で唯一掲げられていたオランダ国旗はここ出島だけだったのだそう。

一瞬だけオランダという国が出島にしかなかった。不便で、出来上がる前の悲劇もあった出島だけれど、そんなロマンも確かにあった。

唐人屋敷と長崎文化

ポルトガル、そしてオランダとの交易は厳しく制限していた幕府だけれど、見た目も良く似ていて、文化も近しい唐人(中国人)に関しては鎖国が始まってしばらくは結構ゆるかったそうだ(ちなみに長崎では「唐人(とうじん)」と言う名前で統一されていたけれど、江戸時代の当時の中国は清朝)。

オランダ人が出島に押し込められることとなった後もしばらくは中国人たちは比較的自由に長崎市内に逗留できた。
またそのあとオランダ同様一箇所に集められることになるけれど、広さもあり、また在住人数も出島とは比べ物にならないほど多かったとか
ちなみに当時の長崎市民は約7万人、唐人は1万人(全員同時に住んでいたわけではなく、平均は2、3千人程度の在住だったそうだ)とも言われている。

1689 唐人屋敷 建築

前回紹介したくんちやハタ(凧)など、長崎にはこの唐人の文化から強く影響を受けたものが多い。
なんでも唐人屋敷は丘の下に作られたので、長崎の人々が上から唐人屋敷を覗き込むことができたとか。
ちなみに唐人屋敷もいつしか長崎の街にそのまま溶け込んでしまい今はいくつかの門やお寺を残すのみ。それでもやはり昔の中華文化を感じられて、今ではどこか懐かしい雰囲気の路地になっている。

01.史跡は点在しているけれど案内図があるのでそれを元にぶらりと歩くのも楽しい。
02.土神堂。今でも長崎のお墓には中国から伝わった土神様が祀られていることが多い。他、海運の神様、媽祖神も祀られていた。
03.最近まで営業していた銭湯。この辺りのレトロな雰囲気に魅せられて映画の舞台になることも多い。

当時の長崎町人の気持ちになりたくて、少し高い位置から唐人屋敷のあったところを眺めてみた。

写真では少し分かりづらいけれど、街部分のちょうど半分、ど真ん中あたりがかつて唐人屋敷があったエリア。
当時の日本人はこの写真の画角のように上から見下ろす形で唐人街を眺めていたそう。遠くから見る賑やかなお祭りや艶やかな衣装などさぞワクワクしただろう。

他にも長崎に根付いた中国文化は多い。精霊流しにペーロン、立体が特徴な長崎刺繍などなど。「精霊流し」と聞くと厳かで静かなものを想像しがちだけれど…長崎では中国式。つまり爆竹を鳴らして華やかに行うもの。ペーロンは14メートルもある船を漕いで競い合うお祭りで、長崎の夏の風物詩にもなっている。
普段の街の中はレトロで静かな雰囲気の長崎だけれど、祭りの時期は爆発的に賑やかなのだ。

さて、鎖国後の唐人街は出島同様、鎖国後はその役目を終えることになる。

そこにいた人たちがどうなったかというと、唐船専用の倉庫を建てるために埋め立てられた新地に移り、そこが今では日本三大中華街のひとつとなった。

いつもは中華料理店やおみやげ物屋さんが並ぶいわゆる「中華街」だけれど、冬の時期は赤色のランタンがずらりと飾られるランタンフェスティバルが行われ、当時の異国的な雰囲気を味わえるとか。今では長崎市民の冬の楽しみとなっている。

さて最後に、「この時代(鎖国)の人々が現代にタイムリープしたら」を妄想してみる。

オランダ人や通詞たちは出島の再現をきっと喜んでくれるだろう。唐人たちも自分たちの文化が長崎に根付いたことは嬉しく思ってくれるかもしれない。思想も宗教も自由なこの時代を羨ましくも思うだろう。

ただ当時の不便を我慢したり、生きるために大切なものを失った人々にとっては、便利で自由なはずの現代でもなお争いがあったり、守れるはずの文化を簡単に手放してしまうようなところを見たら、おそらく贅沢すぎると眉をひそめるだろう。

…叱られる前に、ちょっとだけ襟を正したいと思う。

参考文献

「株式会社」長崎出島 赤瀬 浩(講談社)
シーボルトの日本報告 栗原福也 編訳(平凡社)
遠藤周作と歩く「長崎巡礼」遠藤周作 芸術新潮編集部著(新潮社)

出島

〒850-0862 長崎県長崎市出島町12

営業時間 : 通常 8:00~21:00 (最終入場20:40)
※18時以降の入場は、表門橋からのみとなります。(西側および東側ゲートは18時で閉門します)

TEL : (長崎市文化観光部出島復元整備室 )
095-829-1194

お問い合わせ : dejima@city.nagasaki.lg.jp

URL:https://nagasakidejima.jp/

長崎新地中華街

〒850-0842 長崎県長崎市新地町10-13

URL:http://www.nagasaki-chinatown.com/

PROFILE

松尾 彩Columnist

フリーランスのエディターとしてファッションからアウトドアまで幅広い雑誌・ムック・カタログなどで活動。現在はコラムニストとして主に旅紀行を執筆。小学館kufuraにて旅エッセイ「ドアを開けたら、旅が始まる」連載中

木村 巧Photographer

1993年茨城県生まれ。在学中より、写真家青山裕企氏に師事。春からURT編集部へ。

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