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CULTURE TRIP JUN 19,2019

【400年と少し前から新しい、長崎】お久しぶりです世界さん!アーバンな長崎再び!

ペリーさんが蒸気船でやって来て、とうとう日本は鎖国を解くことになる。
解いた途端に様々な国の人がやって来て、長崎は再び「様々な文化の交わる」街になった。


「これが長崎の匂いさ」
サダの心を読んだかのように判人が言った。
「気持ん悪か」
「異国から来た船の匂い、異人さんの匂い、石炭と石油の匂い、葉巻の匂い、カステラの匂い、卓袱料理と皿うどんの匂い、鼈甲の匂い、ギヤマンの匂い、花街の匂い、伴天連の匂い、西洋の匂い、文明の匂いだ」
「異国だ」
サダの足はすくんだ。

長崎ぶらぶら節 なかにし礼

自由な風が再び長崎に吹く!

ポルトガルとの出会い、鎖国ときて第3回目は「開国後」の長崎のお話。

ご存知アメリカ人のペリーさんがでっかい蒸気船で浦賀に来て以来、幕府も重い腰を上げざるをえなくなる。

鎖国の間も長崎を経由して知識としては世界事情を知ってはいた幕府だけど、その圧倒的な技術の差を目の当たりにして、“こりゃいかん”となるわけです。

1853 ペリー浦賀来航
1858 日米 日米修好通商条約 長崎・神奈川・函館の3港で英米仏蘭露に貿易を許可する。
1859 グラバー来日 / 長崎港が再び貿易港として開港

鎖国してから約250年。ついに「出島以外」でも貿易の許可を出すことになる。オランダも「出島」と言う縛りからようやく放たれ、各国から来た人々が長崎の市内に居住区を移した。

開国前後のこの時代には、特に日本史好きでなくても知っているほどの有名人や歴史にまつわるキーワードが多い。坂本龍馬に勝海舟、西郷隆盛に海援隊、新撰組、奇兵隊etc…。

この辺りの時代は、「誰を物語の主役にするか」で歴史の見方が変わるのがとても面白い。個人的にも年末の時代劇スペシャルなどを見てはある年は「幕府許すまじ!」になるし、ある年は「武士、最後まで頑張れ!」の気持ちになったり。おそらく誰もが新しい時代の予感に喜び、恐れ、疑い、つまりは本気で日本という国の未来を考えたからこそ、相対することもたくさん起きたのだろう。

江戸時代のおしまいごろから明治にはいろんなものが絡み合って新時代を彩ることになる。

そして今までは「国」単位で日本と関わってきた諸外国も、この頃から「個人」の活躍が目立つようになる。

生まれ育った国から遥か遠い東の果てまで商売をしに来る人たちだから、ある程度の野心や野望がないと言葉も文化も違う国で生活するのは難しい。ある意味ど根性な外国人たちがこぞって日本にやって来たおかげで、開国後日本には大量の“外国”が流入する。

その中で有名なのはやっぱりイギリスからお越しの「トーマス・B・グラバーさん」だろう。
さて、突然だけれどクエスチョン。

グラバー園内にあるグラバー像。

近代史ではよく名前の出てくるこのグラバーさんですが、彼はどんなことを日本でしたのだろうか。以下の6つの中から選んでほしい。

1、蒸気機関車の試走
2、造船のための西洋式ドックを建設
3、炭鉱のオーナー
4、日本茶の輸出
5、武器商人
6、日本初のビール会社の基礎に関わる。

正解をお伝えする前に…彼の名前が「現代人」にも非常に有名なのは、そう「グラバー園」の存在があるから。現在では長崎で人気の観光地でもあるが、歴史的にも非常に価値あるものである。

出島を出た外国人達や新たにやって来た人たちの多くは長崎市の「南山手」というエリアに居住区を構えた。

多くが貿易目的だったこともあり、海のそばの街を選んだのだろう。
海が望める一等地に洋館が次々と建てられる。そのうちの何件かは今も住居として使われているとか。

グラバー園に行く前にその周りの小道を散策して見たが、レンガの壁や石畳、そして高台から見える海などなんとも素晴らしい散策路だった。

「グラバー園」には現在9棟の家があるが、このうち旧グラバー邸と旧リンガー邸、旧オルト邸は当時からあったもので、他は移築されて来たものだそうだ。

ちなみに残念ながらグラバー邸は現在補修工事中! しばらくは全体像を見ることができないけれど、一部瓦屋根などは覗くことができた。日本最初の木造洋風建築で、合計4回もの増改築が行われているそうだ。建てたのは天草出身の小山秀之進という人。

初めて見る外国様式の建築設計図に日本の技術を合わせて果敢に挑んだ小山氏。石やレンガを使い、今に残る名邸がいくつも生まれた。

こちらの旧オルト邸も小山氏の手がけたもの。

園内を歩きながらスタッフの間で、「どの家に住みたいか」なんて話をしていたのだけど、ダントツ人気がこちらのオルト邸だった。グリーンに彩られた背の高いポーチが素晴らしい。

まるでリゾートホテルのような開放感と瓦屋根のコンビネーションも美しく、住みよさが見て取れる。

ちなみにオルトさんは19歳で来日、緑茶貿易で大金持ちになった人。建築当時もこの美しい住居は地域の人から賞賛されていたとか。

日のあたるテラスで小さなテーブルと椅子を置いて、海を眺める。

嗚呼、そんな暮らしをして見たい。

01.旧ウォーカー邸 
02.旧リンガー邸の説明書に、当時の街の雰囲気がわかる写真があった。ほぼ外国!
03.リンガー邸近くの木に“ハートマーク”を見つけた。

さて先ほどのクイズの答えですが答えをそろそろ発表する。

正解は

「全部」。

グラバーさん、日本に来た時はなんと21歳。当初は「日本のお茶などを買い付けたいです」とやって来たけれど、武器も売っちゃったり内緒で日本人の海外留学を斡旋したり(そのうちの一人が伊藤博文)。結果、倒幕のある意味立役者にもなります。

日本で商才が花開いたグラバーさん。母国の技術である蒸気機関車を持って来たり、炭鉱を経営したり、それはもう手広く商売を行います。

その後商売がうまくいかなくなったりもしたけれど、ビール会社を発足し、これがのちの「キリンビール」になる。ビール党の人たちは足を向けて寝られない人でもある。
(それを知って、今回長崎でキリンビールを飲むたびに、「ありがとうグラバーさん」が乾杯の挨拶になった)

ある意味鎖国をしていたおかげで、開国後「最先端」をいきなり手にする日本。ゲームで言えば最初に手に入れた武器が最上級種だったくらいの感である。
ここから現代に至るまで猛スピードで日本が近代化できたのは、ひとえに野心溢れる才ある商人と、未来を見据えることのできた日本人がいてくれたおかげ。

そしてそんないきなりの最先端に日本が耐えられたのは、細々ながらもずっと世界とつながっていてくれた長崎のおかげでもある。

潜伏キリシタンと大浦天主堂

写真右の建物は、旧羅典神学校。日本人の聖職者育成のために建てられた。

多い時には長崎市内に13個も建てられた教会は一度全て壊されてしまったが、開国後は再び長崎に建てられることになる。
とはいえ開国後もしばらくは日本人に対してはキリスト教信仰は認められず、これらの教会は来日した外国人のために建てられたそうだ。

1865 大浦天主堂が建てられる

大浦天主堂は“フランス寺”とも呼ばれた、フランス人のために建てられた教会だ。そして1話目で紹介した、「二十六人の殉教者」のための教会でもある。正式名称は二十六聖殉教者聖堂。入り口の聖母マリア像が祈る先には、彼らが殉教した丘がある。

大浦天主堂は現存する日本最古の教会であり、世界遺産に登録された国宝でもあるが、「潜伏キリシタンの発見」の奇跡の場所としても有名である。

潜伏キリシタンが「信徒発見」の日にみた「マリア像」。今も教会内に安置されている。

ある日、プチジャン神父のもとに来た日本人が、200年以上の間代々ひっそりと受け継いできた信仰を打ち明ける。その「信徒発見」のニュースは世界のキリスト教関係者に衝撃をもたらしたとか。

前回軽く触れたが、わたしの生まれた島である天草にも隠れ(潜伏)キリシタンは多く、資料館などに行くと「日本語風にアレンジした祈りの言葉(オラショ)」や「十字架などをひっそりと隠す」「観音様をマリア像に見立てる」など様々な工夫が紹介されていた。

そんな風に200余年もの間信仰を続けてきた人々だ。キリスト教はその時点ではまだ解禁はされていなかったものの、初めて見るマリア像や、本物の教会、神父に出会えた喜びはキリスト教徒ではないわたしでも想像がつく。

ライトアップされた天主堂も昼間とはまた違った美しさ。

さて、大浦天主堂は建築物としての価値も高い。
建築を手がけたのは旧グラバー邸などを手がけた小山秀之進さん。と言っても現在の建物は改築されたもの。当初のものはゴシック風の塔や日本のなまこ壁がミックスされたものだったとか。

取材に訪れた日は残念ながら薄曇りの空だった。
が、雲の切れ間に差し掛かると西日がさっと差し込む。

その瞬間、ステンドグラスに描かれた模様が壁いっぱいに映し出された。

写真の時間は約16:00ごろ。晴れた日は、太陽の位置によりこの模様がゆっくりと移動するのを見ることができる。
十字架のキリスト像は、正面主祭壇奥に設置されている。

そう、大浦天主堂は「日本最古のステンドグラス」がある教会でもある。
最も古いものは19世紀にフランスから贈られた「十字架のキリスト像」。オリジナルのものは原爆の爆風により破損してしまい、戦後に修復されたとか。

ステンドグラスは「全く同じガラス」を作ることができないため、改修と原爆や台風による損壊により現在は3時代のステンドグラスが存在しているそう。

開国後の長崎を照らす光を、ステンドグラスを通して々の祈りの場に届け続けてきた大浦天主堂。美しき教会として、そして歴史の証として、今もなお多くの人が訪れている。

ちなみに小山氏が手がけた部分も一部現存していた。その中で創建時は正面に飾られていたバラ窓を見せてもらった。今は奥の建物の壁に設置されている。

そうそう、<たてまつる>の高浪さんが「大浦天主堂は正面から見ると洋風建築ですが、後ろから見ると和風の三角屋根になっている」と教えてくれたので、それも見せていただいた。確かにポストカードなどで見ていた正面の印象とは違い、和洋の不思議な混在感がある。

大浦天主堂の正面左側の道をずっと登って行くとこんな風景が見られる。
市内の様々な住宅や建物の屋根と、この三角屋根が混在しなんとも長崎らしい景色だった。

長崎ぶらぶら節と思案橋ぶらぶら歩き

16世紀にポルトガルが上陸し、一時期は小ローマとまで言われた長崎。そこから鎖国時代を経て、再びワールドワイドな街になる。

開国後は長らく「長崎だけ」だった“世界”が、あっという間に日本へ駆け巡るわけだが、後々横浜など他の貿易港が主権を握るまでは一般人にとってはまだまだ「外国といえば長崎」だった

映画でも有名な「長崎ぶらぶら節」は明治末期から昭和初期までの花街「丸山」を中心に当時の長崎の雰囲気を描いた小説だ。

冒頭で引用した一節は、のちの名妓・愛八となる主人公サダが長崎県郊外村から、華やかな都市になった長崎市へ売られていく、その途中のシーンを描いたもの。
地方から見た長崎は、かくも異国のような場所だったようだ。

花街・丸山の人気は凄まじく、日本人のみならず外国人も足繁く通ったとか(そして散財して帰っていったとか)。

現在は“花街”としての役割は終えた丸山だけど、近くの飲食街は今も大賑わい。“丸山にいこか戻ろか思案するから”「思案橋」と名付けられたエリアにはスナックから餃子屋さんまでありとあらゆる店があった。

最後に少しだけグルメ話も。

今回アーバンリサーチ アミュプラザ長崎店のスタッフに夜ご飯などアテンドしてもらったが、おすすめだという“長崎の餃子”がうまかった。小さめの一口サイズで、地元民は写真の量くらいは一人で食べてしまうという。それとおでんも人気だそうで、海の街らしく練り物が美味。

「グラバーさんありがとう」と言いながらビールと共に堪能した。

“長崎といえばちゃんぽんに皿うどん”もさすが本場の美味しさ。
ちゃんぽんは明治時代に日本にやってきた中国人が考案した「日本生まれ」の食べ物。

ちなみに地元民はお酢ではなくウスターソースをかけて食べるとか。今回初めてその食べ方に挑戦して見たが、確かにソースの辛口の香りが甘めの餡によく合う。ちょっとクセになってしまった。(ちなみに地元民はニラ玉にもソースをかけていた。これまた醤油よりコクが出てうまい)

同じく長崎名物料理に「卓袱料理」がある。丸テーブルに和・蘭(オランダ)・中のあらゆるご馳走がどーんと乗せられたなかなかゴージャスな料理である。

時代劇好きの人ならご存知だろうが、かつての日本人の食卓といえば「一人一つづつ」の膳に料理が並べられたり、懐石のように順番に料理が運ばれてくるもので、一つのテーブルに料理を置いてみんなで囲むという文化はなかったそうだ。

ただ長崎では海外(中国)経由でいち早くその「テーブルを囲む」文化が伝わり、江戸時代には卓袱料理の雛形ができていたのだそうだ。

現代の日本では逆に“一人一つづつの膳”など、ちょっとした旅館の夕食でなければなかなかお目にかかれない。食文化一つ取ってもほんの少しの年月でこんな風に逆転してしまうのが面白い。

近代から現代へ

今回触れた時代は、いわゆる「近代」と呼ばれる時代。
「現代」に近いようで、でもやっぱりまだまだ遠い「少し昔」の時代。

競うように洋館が建てられ、花街は賑やかで、世界や日本各地から人がやってくるような街。250年ほどの鎖国の間じっと我慢を重ねていたぶん、一気に花開いた文明開化の時期はきっと賑やかだっただろう。
そんな時代の長崎人が現代に来たら…。

長崎に限らず全体的にグレー色のビルが立ち並ぶ現代の街並み。世界がぐるぐると渦を巻くような混沌とした文化の中に生きた彼らにはもしかしたら少々刺激が足りないかもしれない。

ちょっとニヤリとしながら「なんだか未来は、ふふふちょっと地味だねえ」。そんな風に言われちゃったりして。

参考文献

長崎ぶらぶら節 なかにし礼(文藝春秋)
長崎を知る77のキーワード ナガサキベイデザインセンター(講談社)

グラバー園

〒850-0931 長崎県長崎市南山手町8-1

URL:http://www.glover-garden.jp/

大浦天主堂

〒850-0931 長崎県長崎市南山手町5-3

URL:https://nagasaki-oura-church.jp/

PROFILE

松尾 彩Columnist

フリーランスのエディターとしてファッションからアウトドアまで幅広い雑誌・ムック・カタログなどで活動。現在はコラムニストとして主に旅紀行を執筆。小学館kufuraにて旅エッセイ「ドアを開けたら、旅が始まる」連載中

木村 巧Photographer

1993年茨城県生まれ。在学中より、写真家青山裕企氏に師事。春からURT編集部へ。

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